てにをはの呪い 〜あるライターの『初心』表明〜


〔1〕




 画面に表示されたまっさらなページが僕を威嚇している。
 白紙の答案が何より恐ろしかった時代は遠く過ぎ去った。今の僕にとって戦慄すべきもの、それは目の前の白い画面――――白紙の原稿だ。
 「白」に捉えられまじろぐことも出来ずにいると、それは図々しくも僕の内側に入り込む。そして頭の中まで真っ白に染めてしまった。強張る指先、渇いた喉が貼り付くようだ。
 ふいにPCのファンが回った。その軽やかな音が、
 イヒヒヒヒヒヒヒヒ…………何故か嘲笑に聞こえた。
 もう駄目だ! 僕は立ち上がり、脱兎の勢いで自室から飛び出した。短い廊下を駆け抜け、寝室に敷かれた布団に転がって、
「書けないよ、書けないよ、もうやだよ〜!」
 瀕死のゴキブリのようにのたうった。
 いつの間にあとを付いてきたのだろうか。六歳の娘が僕の横で仁王立ちになり、鳩みたいな顔で言い放った。
「ポカーン!」
「…………。おい、ナズナに変な言葉教えるなよ」
 ナズナを追ってきた妻を注意する。が、苦笑いを浮かべながら反論された。
「何言ってるのよ。このあいだFaxで送られてきた校正刷を見て覚えたのよ。まだ漢字は読めないから、覚えられて困る言葉は漢字で書いてちょうだい」
「えっ、あれ見たのか? 風俗誌じゃないか」
「ほんと困るのよ。いまどきPDFで送るでしょ、普通」
 言い負かすことなど出来そうにない。途端に面倒臭くなった僕は布団に顔を埋めて、
「色々事情があるんだよ」
 この上なく便利で小ズルイ言葉を投げ、会話から身をかわした。もちろん妻はお見通しだ。含み笑いをしながらナズナのおかっぱ頭を優しく撫でた。
「はいはい、そうでしょうとも。ナズナ、パパをからかっちゃいけませんよ」
「ポカーンって、いけない言葉?」
「うーん、そうねえ」
「ピカーンは?」
「それはいい言葉だねえ」
 妻子はパカーンだのペカーンだの、気の抜けるような言葉を発しながらのんびりと寝室から出て行った。
 ふう、まったく。
 けれどすぐに戻ってきた。
「ねえ、二階の六畳間の押し入れに物凄く重たい段ボールがあって動かせないのよ。暇なとき見てくれない?」
 かつて僕が使っていたその部屋を、来春小学生になる娘に与えることにしたのだ。妻がいま整理をしてくれている。僕が返事をする前に、ナズナが無邪気な声を上げた。
「パパはいつも家にいて暇だよ?」
 脱力。思わず突っ伏した。
「……うるさいなあ。パパはそういう仕事なの!」
 呻くと、妻はフフフと笑う。僕はフリーのライターだ。




 僕の両親はすでに定年退職し、現在東南アジアの地方都市で悠々自適に暮らしている。僕は実家を譲り受け、馬鹿みたいに家賃の高い都心のアパートを引き払った。二年近く前のことだ。
 都下にあるこの家からは打ち合わせに出向くのが億劫だが、経済的にはとても楽になった。何よりも心身ともに馴染んだこの家、そしてこの町は居心地がいい。僕の地元であり、同じ中学校に通っていた妻の地元でもある。
 ナズナを見てくれる実父母が近いのをいいことに、妻は仕事に就いた。同僚に恵まれて、はつらつと出勤する姿は以前より若々しい。ナズナもすくすく丈夫に育ち、ご近所では美少女だとなかなかの評判だ。
 僕の仕事もとりあえずは順調だ。もちろん気の進まないものもあるけれど、選り好み出来るほどには売れっ子でない。残念だ。――――しかし、未来は明るいだろう。
 いまに僕は偉い作家先生になる予定なのだ。そのうち軽井沢みたいな所に隠れ家を建てて隠遁生活を送るつもりだ。たおやかな自然を愛でながら、心を打つエッセイや物議を醸すドキュメンタリー、その他諸々の作品を惜しげ無く生み出す。そして編集者どもがヘコヘコとお土産を抱えてやって来て、
「いやー先生、小誌に何か書いていただけないですかねえ。あ、日本酒お好きでしたよね、純米大吟醸なんですがお口に合いますかどうか……」
 などと言われるのが夢なのだ。アホかと笑われてもいい。夢は大きいほど、そのうえ甘いほど、反って現実が見えるというものだ。
 順風満帆――――と、思っていた。つい数日前までは。
 追い風が不意に止み、僕を乗せた舟は大海にふらふら漂っている。どんなに微風でもいいから捕まえたい。すがる思いでマストに昇ってみるが風はなく、痺れるほど冷たい空気が凛と張り詰めているだけだった。
 日に日に寒さが増していく。もうすぐ、冬将軍が訪れる。




 仕事の依頼が減ったとか、ギャラを踏み倒されたというわけではない。先日、こんなことがあったのだ。
 その日、僕は旧友と酒を酌み交わしていた。はやりの個室風居酒屋、用を足し戻る途中、よく知った声を耳にした。見ると、長らく懇意にしている編集者と顔見知りの同業者が呑んでいた。
 ごあいさつを、と踏み出した足が固まった。僕の噂をしていたからだ。顔を赤くした編集A氏は心得顔に僕を批評していた。
「あの人ねえ、仕事は早いし直しも少ないし、いいライターなんだけどさ。もう七年付き合ってるけど、知り合った頃と比べてちっとも文章上手くならないんだよ。向上心ってもんに欠けるね。どんな急な仕事でも絶対に断らないとこだけが取り柄かな」
 よろめいた。頭を鈍器で殴られた気がした。が、なんとか持ち直した。ここで冷静さを失ったら久しぶりに会った旧友に申し訳ない。
 何事もなかったように談笑し、帰りの電車では紳士らしく婆さんに席を譲った。大人だからな、と自分に言い聞かせ。それから、僕の帰りを待ちわびながら寝たであろう愛娘に食玩を買い、肩を軽妙に揺らせて帰宅した。
 そして――――自室に入って鞄を取り落とし、僕は気絶した。
 夜食のお茶漬けは少しも味がせず、トイレで百回溜め息をついて、湯船の中で……ブクブクブクブク……。
 酷評されたことは今までにもある。コラムの連載がすぐに打ち切りになり自信を無くしたことも。だけど、こんな衝撃は初めてだった。信頼していた、信頼されていると思っていた編集A氏の言だからだろう。
 ライターなど野良猫ぐらいたくさんいる。僕というライターを忘れずにいてくれるだけでも有り難い。なんてことは百も承知だ。しかし。
「便利屋、かあ……」
 よせばいいのについ呟くと、打ちのめされて二度と起き上がれそうにない。このまま息絶えたら、肩こりに悩ませられることもなくなるな……。
 PCに向かう気になれない、たとえ向かっても集中出来ない。あれ以来、僕はろくすっぽ書けないでいる。




 さおだけ屋の販促歌で目が覚めた。大きく伸びをしてから半身を起こす。妻子の布団はすでに畳まれて押し入れの中だ。隣で寝ていたのが幻であったように片付いている。寝室の一番奥に敷かれた僕の布団だけが万年床。僕はどちらかといえば夜型で、妻子の生活サイクルとは数時間ズレている。
 寝癖を撫でつつ居間に向かうと、コートを着込んだ妻子が入れ違うようにそこから出てきた。世間は今日から三連休だ。
「あれ。どこか出掛けるのか」
「ちょっとお買い物。お昼はカレーの残りでも温めてくれる?」
「パパ、ナズナのプリン一個食べてもいいよ」
 ふたりは声と足取りを同じぐらい弾ませて、そそくさと玄関を出て行った。ナズナのはしゃぎ声が遠くなり、やがて聞こえなくなった。家の中は急に静まり返る。
「うう、寒っ……」
 僕は両手で二の腕をさすり、居間のソファに腰を下ろした。
 そこには一冊の絵本と微かな温もりが残っていた。「ママまあだ?」ソファで足をブラブラさせるナズナと、急ぐあまり動作が散漫になる妻が目に浮かぶ。温もりにじっと手を当てると、なんだか逆に寒さが増した。
 出掛ける予定なら、言ってくれれば車出したのに……。ぼやいたはずみに思い出す、妻子の生活サイクルから落ちこぼれ、毎朝置いてけぼりにされる万年床を。
 社会に居場所を見つけた妻を見ていて嬉しく思う反面、実のところ一抹の寂しさを禁じ得ない。自分がこれほどに狭量な人物だったとは……。とくに居酒屋での一件以来、より強く感じるようだった。
 なあんて、いい歳した男が甘えん坊みたいで我ながら気持ちが悪い。人間落ち込んでいるときは気弱になるものなのだ。
 気を取り直して熱いコーヒーを煎れ、ソファの上に新聞を広げた。まず目に入るのは、下段の書籍広告だ。
 活字離れが叫ばれて久しいのに、不思議なことに出版点数は増えている。そうせざるを得ない事情があって、今日も出版社は資源の無駄とも思える本をわんさと世に送り出している。その罪深さを思うと糾弾したくもなるが、そういう僕も立派な加担者だ。
 僕が文章を書くようになったのは中学生の頃からだ。ジャンケンに負けて仕方なくなった図書委員。その委員会に少し変わった先輩がいた。
 その先輩は図書室の本を片端から読み尽くし、誰にも頼まれないのに書評を書いて掲示していた。そんなもの書いたって殆ど誰も読まないのに、だ。夕暮れ迫る図書室で熱心に書評を書く先輩の横顔を、二十年近くたった今でも鮮明に思い出せる。
 先輩は僕にたくさんの良本と、言葉を綴ることの面白さを教えてくれた。
 初めは真似して書評を書いた。それから小説を書いてみた。何本か書いたけど、物語を創造する素地が弱くて中途で投げ出すことが多かった。もう長いこと小説は書いていない。
 高校では新聞部に所属、二十歳を過ぎて出版社でアルバイトを始めた。人生初の名刺には「編集アシスタント」……なんのことはない「使いっ走り」のことだ。
 その頃、同じ編集部の先輩編集者はペンネームを使い、他社の雑誌に記事を寄せていた。あるとき、面倒臭くなったのか「謝礼をやるからおまえ書けよ」と言った。つまりゴーストライターだ。ケチで有名な先輩編集者は、牛丼大盛りをご馳走してくれただけ――――が、そんなことはどうでも良かった。猫の額ほどのコラムであっても、自分の文章が商業誌に載ったのが夢のようで、僕は小躍りしたい気分だった。
 それが、人生の転機だったと思う。
 人当たりの良さと物怖じしない性格、企画力に長けていて、少しばかり文章が上手ければいい。無学な僕にあるのは逆にそれだけだった。
 ライターは人脈コネが命、いや、人脈も実力のうちと言おう。出会いを活かして仕事を貰ううちに、文章だけでなんとか食えるようになった。もちろん今では名刺に堂々と載せられる得意分野を持っている。肩書きは後から付いてくるものだ。
 ほんの数冊だが僕にも自著がある。本を出したなんて言うと、まわりは「夢の印税生活」という言葉を決まって発する。
 実際のところ、僕のような無名のライターは刷り部数が少ないから、重版でもかからない限りそんなに儲からない。そして重版なんて、まあまずかからないと思っていい。と言うか、正直かかったためしがない。夢の印税生活……言われるたびにそっと溜め息をついた。夢のまた夢、とくに今の僕にとってはアンドロメダよりまだ遠い。
 ――――と、思ったら。
 新聞をめくると知人の著作の広告があり、「重版出来」の文字が躍っていた!
 突如、おどろおどろしいものが胸の奥で渦巻いた。それは赤黒い熱の塊になって喉元を突き上げる。己の醜さに拳を握った。
 ぬおうううううう…………「俺、嫉妬乙!」
 僕はぐったりと項垂れた。ふと顔を上げ、洗濯物の揺れる明るい庭へ目を遣った。すると昨日履いていた靴下が僕の気持ちを裏切って、軽やかにステップを踏んでいた。



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