空 飛 ぶ お ば さ ん


〔1〕





 ブランコに乗りたい。
 丘の中腹をとおる遊歩道から、すぐ下の児童公園を眺めるたびにそう思う。でも乗らない。二十歳の女がひとりでブランコを漕ぐなんて、ちょっと憚られるからだ。
 子供の声のしない公園は、いち早く夜の気配を漂わせていた。ブランコは昼の暑さに疲れたようにじいっと静止している。最後に漕いだのは、一体いつだっけ……。
 つかのま足を止めたあと、「行くよ」と愛犬ポチのリードを引いた。
 ――――と、あずま屋の近くに見覚えのある人影を発見し、再び足を止めた。
 あれは紛れもなく、加古みゆき。三十五歳。先月、勤め先に入社した契約社員だ。穏やかで真面目な人だけど、ひと言で加古さんを表すとすれば『どんくさい』。おそらく、全従業員が納得する評価だろう。そういえば家が近く、最寄り駅も同じだったはずだ。
 加古さんは辺りをきょろきょろしていた。誰もいないことを確認するみたいにだ。首を左右へ動かすたびに、後頭部で束ねられた黒髪が背中で揺れていた。そして、小走りにターザンロープへ近寄ると、丸太のはしごをそそくさと登っていく。加古さんとは思えない機敏な動作だった。
 な、なにやってんの、あのひと。まさか……
 登りつめた加古さんは念を押すようにもう一度辺りを見回して、それから……
 ロープにしっかとぶらさがり、堂々と空を切ったのだ!

 アーア、アァァァ――――……

 実際、おたけびは上げていない。けれど、歌うように開かれた口元を見れば、脳内でそう叫んでいることに疑いの余地はない。
 驚愕、絶句、硬直、放心。イナズマが落ちてきて背骨を貫いた気がした。加古さんは気持ちよさげに夕映えの空を仰ぐ。浮かべたほほえみは突き抜けるほど清々しい。そのまま空へ飛んでいきそうなほどの、解き放たれた顔つきだ。
 二度目のイナズマが落ちてきた。私のなかにあるなにかが黒こげになって煙を上げる。飛行する三十五歳に、両目も意識もくぎ付けだ。
 軽やかな滑車の音が誰もいない公園に響く。ほどなく終点を迎え、その小柄な身体がカックン、と大きく弾む。と、同時に、

 ずっきゅ――――――――ん!

 心のなかに銃声が鳴り響いた。ハートを撃ち抜く銃声だ。
 力の抜けた右手からリードの持ち手が滑り落ちた。




 この衝撃を詩にしたくて急いで帰宅した。詩作は唯一の趣味だ。なにかに感銘を受けると書きたくて溜まらなくなる。自室の机でノートPCに向かい、ぽつぽつとキーを叩いていた。
 〈風を切り 飛翔する 暮れなずむ夏空へ――――…〉
 ……だめだ。全然よくない。だいいち〈暮れなずむ〉って、春っぽくない?
 ちっともうまく表現できない。詩語の卵は溢れそうに湧いてくるのに、どこかで引っかかっているみたい、出てこない。言葉を探しあぐね、両腕で頬杖をついた。
 それにつけても加古さんだ。以前からそこはかとなく世間から浮いているとは思っていたけど、あそこまでズレていたなんて驚いた。けれどもっと驚くべきは、三十五歳の奇行に心打たれてしまったということだ。さっき黒こげになったのは、常識という名の観念かもしれない。ブランコさえ遠慮する二十歳の前で、あんなに潔く空を切るなんて……。
 そもそも仕事ができるとは言いがたい加古さんに対して、それほど良い印象を抱いてはいなかった。残念だけど私も相当どんくさい。自分よりどんくさい人が存在することに、大きな安堵と小さな優越を感じていたくらい。なのに、空へ向けたほほえみを思い出すと胸がきゅうっとする始末だ。なんてことだろう!
 とにかく、明日会うのが楽しみだ。そんなことを考えて頬を緩ませていたら、突然、頭上から弟の声が降ってきた。
「〈飛翔する〉、だって」
「きゃああっ」
 慌ててPCの蓋を閉じる。振り返ると、ひとつ歳下の弟がニヤニヤして立っていた。
「覗くな! っていうか、勝手に入ってこないでよ」
 怒っても弟は右から左だ。「ドア開いてたし」と当然の権利みたいに返した。
「ねえちゃんの詩って硬いんだよね。美味しい身が入ってるんだろうけど、無骨な殻に閉ざされた牡蠣っていうか、ぱっと見『なんだコレ』みたいな?」
「わけ分かんない批評はいらないっ!」
 弟は美しく整えた眉毛をきりっと上げて、
「大真面目な感想だぜ。ねえちゃんが〈えくすたしー〉を感じられるように協力してるつもりなんだけど」
 思いどおりに書けると恍惚感を覚える、以前そう話したことがあった。すると弟は、そんな言葉は似合わないと私を笑い倒した。今のはイヤミだ。エクスタシーがひらがなに聞こえたから間違いない。すべてにおいて私より出来の良い弟は、姉の威厳を踏みにじることが生き甲斐なのだ。ああっ、くやしい。
「大きなお世話ッ。で、なんの用?」
 つっけんどんに尋ねると、なぜか弟はしたり顔で微笑う。
「日曜なんだから夕飯の支度くらい手伝えって、母さんがぼやいてる」
 ……す、すいません。私は心持ち肩をすぼめて、椅子から立ち上がった。




 キッチンは油の香ばしい匂いが充満していた。換気扇が負けじと音を立てている。
 シンクの横でたどたどしくキャベツを刻んでいると、母がヒレカツを揚げながら口を出した。
「前より上手くなったじゃない。四十点ってとこかしら」
 微妙な点数だな。嬉しくないので黙っていた。弟がテーブルを拭きつつ、またいらないことを口走る。
「四十点でも問題ないよ。ねえちゃんの彼氏、どうせ千切りキャベツ食わねえもん」
 かちん、ときた。黙れ、と叫ぶ前に母がすばやく応えてしまう。
「あらなあに? 彼氏って」
「ねえちゃんの部屋の壁に貼ってあるじゃん」
「なあんだ」
 期待したようなことは少しもないと察した母は、けれど残念がるふうもなく、次のカツをたんたんと油に投入し始めた。
 先日ネットで買った、男装の麗人が出てくる某少女漫画のポスターを飾りはじめてから、弟はことあるごとにネタにする。ほっとけって何度叫んだか分からない。きつく睨んでも、弟はきれいなふたえの目をしならせてほほえみ返す。いやらしいほど優美な笑みだ。
 殺、滅、死! と、口のなかで吐き捨てて、弟を心の断頭台へ送る。そして溜め息をひとつ吐き、キッチン横の窓に映りこむ自分の姿をつい見つめてしまう。
 私の名前は村松木綿子(ゆうこ)。木綿とはもめんのことではなく、古くから神に捧げられてきた尊い糸のことだ。なのに、学生時代よく言われた。
『シルクじゃなくてコットンか。なんかえらく地味だねえ』
 名のとおりひどく地味に成長した。体型は哀しいかな、ずんぐりむっくり。小顔で口も鼻も可愛らしく小ぶりだけど、目だって小さい。髪型だけ気取っても釣り合いが取れないので、適度な茶色のミディアムショートだ。特技もなく、高校時代の成績さえ控え目だった。ひとより良いと胸を張って言えるのは……視力ぐらいかもしれない。
 けれど弟は違う。なにをやらせても及第点以上だ。すらりと背が高く、目鼻立ちもくっきりして整っている。大学でも人気者らしく携帯は鳴りっぱなし。本人が言うには三分の二は女子からだって。同じ親から生まれたのに……というより、親を見れば納得できた。
 弟は母にそっくりで、私は父に似てしまったのだ。五十を過ぎても華のある母と、心身ともに地味を体現しきった父。母が孔雀なら父は鳩、母が豹なら父は羊だ。
「ねえ、お母さん。なんでお父さんみたいな地味な人と結婚したの?」
 父の姿が見えないのをいいことに、ずばり尋ねてみた。母は乾いた笑い声を上げる。
「いやあね、なによ突然」
「お母さん、結婚当時三十過ぎてたんでしょ。いまどき普通だけど昔としては遅めだよね? あせって結婚しちゃったの?」
 こんがり揚がったカツをバットへ並べつつ、母は諭すように言う。
「後学のために教えとくけど。女は三十過ぎて、ときめきより安らぎのほうが大切だってやっと気付くの。当時、お父さんには三十路女が鈴なりで、かえって競争率高かったんだから」
 父にモテ期があったなんて、とても想像できない。加えてそんな心理もよく分からなかった。
「……仕事に疲れて打算的になるってこと?」
「違う、違う」
 首を軽く左右して私の見解を否定した。あと十年したら分かるわよ、と先輩風を吹かせる母に、弟が意地悪くつっこむ。
「それって要するに、ときめきに耐えられる体力がなくなるってことじゃないの」
 母は下瞼を引きつらせながらも「それはあるわね」。あっさりと認めた――――そのときだ。
 ばひんっ。
 鮮烈な音が、夕飯前の和やかな空気を切りさいた。
 よく確かめると父はいた。キッチンに背を向けたソファの上で、あどけなく口を開け寝こけていた。シャツの裾からメタボ腹を覗かせて。いまのは、寝っ屁の音だ。
 しばしの沈黙のあと、母は冷静に語る。
「まあ、つまりよ。ときめいたって安らいだって、恋は確実に終わるわけ」



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