蒼天の目玉 〜少年と、ダルブーラムの娼婦


〔1〕






   〈序〉



 長い雨がようやく止んだ雨季の夜半。
 煉瓦敷きの濡れた坂道をのぼり、宿屋へと足音を忍ばせた。母屋をまわり、山を背にした離れへ向かう。宿の灯りはすべて消されて、誰もがすでに寝ていることをラジに教えてくれた。
 内鍵には昼間のうちに細工をしておいた。容易に戸口を開けてしまうと、かまちを上がり、夜気に湿った暗い土間をそろりと歩く。と、闇の中から数匹のネズミが飛び出した。ネズミは慌てたように疾走し、外へと向かっていく。振り返って見送れば、開け放した戸口にすっぽりと収まった朧月が、しめやかに滲んでいた。
 目に、心に、月が染みる。
 あの男を突くための短刀(ククリ)を、右手に握りしめた。
 ほどなく、遠雷に似た音が響き始めた。それは瞬く間に天地を裂く轟音となり……――――――それが、ラジの最期の記憶。





 

 目覚めると、ラジは寺院の堂でぽつねんと膝を抱えていた。冷ややかな石の床が素足に心地よく、辺りは薄暗い。背丈の倍ほどの高さに精緻な木彫りの飾り窓。その格子からは柔らかな陽が洩れて、前方の床をぼんやりと照らしていた。
 ほの明かりのなかに、極彩色の石像が立ち並ぶ。舞踏する神、弦を掻き鳴らす神、象面人身の神……躍動感溢れる神々の像だ。かつて参詣したことのある、聖河のほとりの寺院だと気がついた。
 いつ、どうして、ここへやって来たのだろう、記憶を辿るが何も分からない。覚えているのはあの宿で見た、したたるような朧月。白の半袖と、ふくらはぎまで覆う生成色の腰巻き(ルンギー)は、あの日に着ていた衣服と同じだ。
 浮き彫りの施された銀の戸を押し開けて、外を確認する。敷地内は静まり返り、ひとの気配は少しもない。門を出て石の階段を降りると、聖河(ガンガー)へ――沐浴場(ガート)へ辿り着く。河岸には石敷きの広場、そこから河のなかまで階段が続いている。
 ラジは慌てた。ここはあの寺院であり、尚かつそうではなかった。参拝者も行者(サドゥ)も、誰ひとりとしていない。遺体を焼く煙もない。何よりもその河は現実と違い、圧倒されるほど大きかったのだ。向こう岸は遙かに霞んでいる。
 そして――――
 雲ひとつない大空には、指で引き千切ったような破れ目があり、そこから金色の大きな目玉がひとつ覗いていた。
 ラジは震駭し、腰巻きの裾から覗く細い足をもつれさせながら本堂へ戻った。すると祭壇の奥から、真鍮製の牛の巨像がラジを深々と見つめていた。思慮深そうなその瞳が語る――――少年よ、おまえは死を迎えたのだ、と。
 途端、誰もいないはずの本堂に幾人もの叫び声が渦巻いた。見えないだけで、同じく死を迎えた者達がそこにいるのだ。
 驚愕、困惑、悲嘆、無念……さまざまな声が高い天井に木霊する。ラジは皆の声に共感しながら泣き叫び、崩れ落ち――――それから、少しく安堵した。
 刹那か劫(こう)か、時が過ぎ。
 やがて、ラジはゆっくりと噛み締めるような足取りでガートの石階段を降りた。舟が待っているはずなのだ。先ほどはなかった小さな舟着き場。死を受け入れた者にだけ見える小舟が、待っていた。
 舟に乗り込むと、寺院はもうどこにも見当たらない。ガートも消え失せ、水際から赤茶けた地がひたすらに広がっていた。胸中で、父母と兄弟に別れを告げた。
 舟には黒衣を纏った舟頭が乗っていた。〈役人〉のひとりだという。
 ラジは空の目玉を指して、あれは何かと問うてみた。「目玉だ」と役人が答えると、急に興味は失せてしまった。
 知ったところでどうにもならない、耳の奥で誰かがそう囁いた気がした。






 

 破れ目の目玉が、見つめている――――

 







    『蒼天の目玉 〜少年と、ダルブーラムの娼婦』





 ゆるやかに流れる大河の縁にて、一艘の小舟が客を待っていた。舟着き場も小舟も、大河にはそぐわない貧弱なもので、まるで岸辺に漂着した木切れのようだ。舟はすでに数名の客を乗せ、風も波もない河縁で絵のように静止している。
 対岸は霞むほど遠く、地は果てしなく何もない。青緑の河と赤土の荒野、世界はそのふたつに分けられて漠漠と広がっている。荒野の果て、遙か北方には万年雪を頂く山々が連なって、空との境目を縁取るように白く輝いていた。
 晴れ渡った大空には破れ目がある。
 巨人が腕を伸ばして空色の天幕をむしり取る……ラジは舟の上に腰を下ろし、そんな光景を頭に描いていた。破れ目の向こうは眩しくてよく見えない。目を凝らして見ようにも、そこから覗く金色の目玉が空恐ろしくて、まともに見上げる気にはなれなかった。
 目玉は太陽に似ているが、あきらかに眼球だ。破れ目にぽっかりと浮かんだ片目は、真昼の猫のごとく瞳孔を絞り上げ、金色の虹彩を爛々と輝かせていた。太陽の代わりに下界を照らしつつ、すべてを見下ろすみたいにそこに在る。だだ広い景色を白々とさせるほど、それはきつく照りつけていた。
 ありえない光景に、ラジは本当に死を迎えたのだと、河のほとりにいるのだと、よくよ
く思い知らされる。



 ――――ジャギリ。



 ふいに空の目玉が大きな音を立ててまばたきをした。重たい鉄のはさみで厚い布を裁つ音に似ている。身体の奥をえぐられた気になる不快な音だ。
 無骨なまばたきに初めは驚いたラジも、それが来客の合図だとすぐに分かった。
 幼さの残る大きな目で岸辺を見やる、他の乗客も同様に視線を向けた。役人が朽ちかけた桟橋に立ち上がる。
 ラジの右隣に座る男が伸びをした。堂々たる体躯を誇示するような大きな伸びだ。無遠慮に伸ばされた男の腕が、ラジの赤みを帯びた短髪を揺らせる。迷惑など意に介さないというふうに、男はそのままの姿勢でラジに囁いた。
「次の客は女かな? 女だったらいいな。むさ苦しいぜ、男ばっかで」
「……どっちでもいいじゃないか、そういうの興味ないよ」
「は! つまんねえ奴だな」
 素っ気ないラジの態度に男はわざとらしく眉根を寄せたが、すぐに岸辺へと目を向けた。
 皆の視線の先で空気がおもむろに揺らぎ始める。人ひとり分ほどの陽炎が立ちのぼり、まもなく人の姿に像を結んだ。
 現れたのはラジより幾らか年少とみえる、痩せた少女だった。
 少女の姿を認めると、ラジは胸の奥に冷たい雫がぽつりと落ちた気がした。そして、そんな自分を否定するのだ。
 右隣の男がにやけながら懲りずに耳打ちをする。
「女っちゃあ女だが、もうちょっと熟れてる方が好みなんだがなあ。おまえどうだ、ちょうど似合いの年頃だぜ?」
 興味がないと言っているのに……呆れたラジは鼻であしらった。
 少女の細い身体を包んでいるのは、クルタ・スルワールと呼ばれる、若い女性が好む衣装だ。丈が膝まである長い上衣と、揃いのゆったりとした脚衣、上下とも流行の杏色。同系色の肩かけを襟もとに巻き、両端を背のほうへ垂らしていた。忽然と現れた鮮やかな杏色は、荒野を背景により際立って見えた。
 少女はしかめっつらをして、舟と役人を凝視していた。両足を肩幅ほど開き、必要以上に胸を張っている。痩せすぎているせいか、張った胸や脚の上で衣服が踊っていた。ギュッと結んだ唇、初々しさの欠片もない強い瞳は大人顔負けだ。やがて、その黒い瞳と同じだけ凄みのきいた声で、
「舟賃はいくらなの?」
「五十パイサだ」
 役人はよく響く低い声で答えた。
「あんた正気!? 高いわよっ、せいぜい十でしょ?」
「では、四十パイサだ」
「こんな古びた舟でそりゃないわ。暴利ってもんよ!」
 少女は大袈裟に両手を広げ要求を叩きつけた。両手首にいくつもはめた細い腕輪が、弾みでシャンと涼やかな音を立てる。
「なんならあっちの舟に乗ったっていいのよ」
 かろうじて見えるほど遠くの舟着き場を指し示す。すると役人は一拍置いて、台詞を綴るような抑揚のない口調で諭した。
「あれはおまえの乗れる舟ではない。乗客名簿にない者は乗せられないのだ。この舟の名簿にはおまえの名が載っている。そして名が載っていれば舟賃は必要ない」
「な……!?」
「そういうことだ」
 役人は青白い顔にニヤリと笑みを浮かべた。
「……ったく、ふざけないでよッ。莫迦にして!」
 少女が不機嫌そうな足取りで舟に乗り込むのを、ラジはじっと見つめていた。思ったとおり、岸辺を振り返った少女はわずかに顔を歪ませた。今、その視界から寺院が消え去ったのだ。少女はほんのいっとき目を細め、吹っ切るように渋面へ戻った。
 他の乗客は大人ばかり。歳の近い者が同じように死を迎えたことを、ラジは切なく思う。が、少女はラジと目が合っても相哀れむ様子など微塵も見せず、途端に顔つきを明るくした。そして、「ナマステ(こんにちは)」と掌を合わせて挨拶し、
「隣、いいかしら?」
「どうぞ」
 ラジは首を横に傾けて快諾し、気持ち右側へつめてやった。少女はにっこりと微笑みを返す。と、欠けた前歯がチラリと覗き、離れ気味の両目の下でそばかすが跳び跳ねた。左の鼻に差した金のピアスがささやかに自己主張。癖の強すぎる黒髪を指先でもてあそび、少女は少しも似合わぬ科を作る。媚びるように声を高くして、
「エトラ・グプタよ。よろしくね」
「え、あ、……うん」
 打って変わった態度にまごついて、ラジはうなずくのが精一杯。右隣の男が、ぷっと吹き出した。





 対岸が霞むほど大きな河も、見渡す限りの平原も、ラジは生前見たことがない。けれど、遠くに連なる白き山々はよく知っていた。雪の家(ヒマール)と呼ばれる神々の山だ。
 ラジはヒマールの南側にある山村で生まれ育った。行商人や巡礼者が行き交う山道から少し離れた、小さくも美しい農村だ。神々に愛でられし地に生まれたと思っていたのに、どうやら自分は寵を受けていないらしい。ラジはそんなことを考えていた。
 人は生後六日目に、神によりその一生を額へ書き込まれるのだといわれる。額に受ける祝福の赤い印(ティカ)の、その奥に。ラジの褐色の額には、十七年に満たない生涯しか書き込まれなかったということだ。遙かな山々を見つめ、それから静かにうつむいた。
 客はあと何人来るのだろう……ふと、疑問が頭をよぎる。ラジは首をふり、慌ててそれを振り払った。その疑問の奥底に、何かを期待している自分を見た気がしたからだ。
 空の破れ目で、また目玉がまばたきをした。
 まばたきといっても、目玉に瞼はない。目玉の両端から瞬膜が現れて、瞬間的に全体を覆うのだ。その際、ほんの一瞬だけ辺りが闇になる。
 向かいに座る猫背の男が、まばたきの音にびくりと反応した。音がするたびに、小さく飛び上がり縮こまる。「ヒッ」と声を漏らすことさえあった。すると、右隣の男が決まって鬱陶しそうに一瞥した。
 だけど、あんなに不気味な音なのだから戦くのも無理はない、とラジは思う。こんなところで女の客がいないと嘆く、右隣の男の方こそどうかしているのだ。
「最後の客だ」
 役人は独り言のように告げた。
 これで、最後――――ラジは無意識に息をつめて、岸辺に現れるだろう最後の客を待ち受けた。両の拳を堅くして。
 姿を見せたのは、目の覚めるような青いサリーを纏った老婦、乳飲み子を抱えていた。


 ――――あの男じゃない!


 胸の奥がわななき、思わず目を背ける。
「かーっ! 女ったって下働きの婆さんかよ、これで最後か、ついてねえよ」
 右隣の男がやけくそといった調子で両脚を投げ出した。ラジは動揺を押し殺し、低く呟いた。
「……ついてないから、こんなふうに死ぬんだろう」
「ま、そりゃそうだな。あの宿に泊まったのが運のつき、ってなあ」
 右隣の男は自嘲気味に独りごちて、噛んでいたビンロウの種を舟の外に吐き出した。ビンロウの種独特の、ほの甘く清涼な匂いがわずかに漂った。
 役人はへさきに立ち出発を告げた。そして指揮者のごとく右手を挙げただけで、粗末な小舟はゆっくりと岸辺を離れていった。舟は役人の意のままに動く。静まり返った河面にゆるやかな線を描きながら滑っていく。
 舟床には櫂がひとつだけ横たわっているが、使われた跡はなくまだ新しい。古びた小舟とは不釣り合いで、寂しげに違和感を放っていた。はぐれ者のように物悲しさを漂わせる不用な櫂を見て、ラジは自らを重ねずにいられない。孤立しがちで行き場なく、そのうえ見苦しい自分をだ。
 役人は誰もが見上げるほどに身丈が大きい。身体にぴたりとした黒い衣装は、ラジや他の男達が身に付けているルンギー――腰に巻きつけて履く筒型の布――とはまるで違う。燕尾服に似て、後ろ身頃だけが長く尾羽のよう。腕を組み、ただ前方を見つめている。まっすぐに立ち尽くす姿は、さながらへさきに打ち込まれた巨大な黒い釘だ。切れ長の両目には白目がなかった。黒目だけが血の気のない顔で妖しげに光っている。不気味に思うのはそれだけではない、その黒目しかない目は決してまばたきをしないのだった。
「ねえ、お役人」
 ラジはへさきに向かって声をかけた。
「あそこで死んだ者はこれで全員なのか?」
 ふり返った役人は足下に置いていた名簿を取り上げた。乗客を目で数え、記載事項と照らし合わせてから、それを読み上げる。
「○月○日深夜、ダルブーラム東部で山崩れ。宿屋の離れ一棟全壊。死者、男十名、女二名、計十二名、うち乳飲み子一名――――つまり、ここにいる全員だ」
 そうか、とラジは目を伏せる。
「誰かを探しているのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「ここにいない者は生きている」
 事務的に告げて、役人は前へ向き直した。


 あの男は、生きている……生きている……


 身体を幾分すくめて、頭の中で反芻する。
 ラジは初めて訪れたダルブーラムで、あの男――――ラジが住み込みで働いていた商家の番頭――――を偶然見かけた。店の金を着服したと言って、ラジを解雇へ導いた男だ。無論そんな事実はなく、まったくの濡れぎぬだ。収まりかけていた憎しみがたちまち膨らみ、ラジは心を危うくした。何故ダルブーラムにいるのか、ささいな疑問は再燃した憤りの前ではないに等しい。
 復讐を思い立ち番頭の跡をつけた。泊まる宿を探し当て、夜更けを待ち忍び込んだ。ところが目的を果たす前に、ラジは土砂に呑まれてしまった。番頭は生き残り、ラジだけが死を迎えた。
 生存がはっきりしてしまうと、逆に気が軽くなったように思えた。こうして死んだのは身から出た錆、復讐など考えたから。本心を明かせばやるせない思いだ。けれど、罪を犯す前に死ねたと考えることも出来る。
 そもそも、ラジは自分の取った行動を肯定することなど出来やしないと、心の底では分かっていた。それは徳に背くことだ。
 徳を積んでいるなら行く末は明るく、そうでなければ然るべき来世を迎えることになる――――誰もが知っている、世の理(ことわり)だ。
 遂げる前でよかった、罪を犯さずに済んだ、もう舟に乗っている……口の中でくり返すうちに、心は河面と同じほど穏やかになった。
 老婦が声をつまらせながら、ラジの左に座るエトラへ話しかけた。しゃがれたその声は、まだわずかに色香を残している。
「エトラ……あんた、こんな……なんて不運な子なんだい」
 老婦は目尻に黒々とした深い皺を刻み、涙を滲ませていた。頭をふわりと覆った青い薄布の端で、そっと目元を押さえる。
 エトラは感傷を表さない。胸の内を代弁したような老婦の台詞を、茶化すみたいに肩をすくめた。
「おばあ、泣かないでよ。女将さんや姐さん達が無事で何よりじゃないの」
「何言ってんだい! あんたが一番若かったじゃないのさ。女将なんて、あんな大嘘つきのお調子者……あいつが死ねばよかったんだよ、憎まれっ子ほど運が強いって本当だねえ!」
 いかにも悔しげに老婦は悪態をついた。耳朶に垂れ下がった大振りの金細工が揺れる。エトラは唇をキュッと引き、鼻で溜め息をついた。
「だって、そんなふうにでも思わなきゃやってらんないでしょ?」
 誰かがエトラの言葉に賛同した。
「そうだ。ワシは死んじまったが一緒に泊まった弟は助かったんだ。良しとせにゃあな」
 ふたりの言葉は空音であり、また本音でもあるだろう。そう考えることで自分を慰める。
 当然、誰しもが少なからず未練を残してきたに違いない。が、舟に乗る以外に道はなく、また、乗らなければ来世は訪れないことを知っている。あの寺院で未練に区切りをつけ、死を受け入れて。自らの足で舟着き場に向かったはずなのだ。皆、自分と同じだと、ラジはなんとなくほっとした。





 舟は流れにまかせて進んでいる。いや、本当に進んでいるのだろうか、ラジは身を乗り出して、青緑色の河面から霞む対岸までを眺め渡した。
 水面は滑らかで、まるで青銅の鏡のよう。流れなどとても見て取れない。対岸に目をこらしても、岸辺を探しても、指標になるものが何もないのでよく分からなかった。後方も確かめてみたが、舟はもう水面に線を描いていない。ただぽっかりと浮かんでいるように感じられる。
 空を仰げば鳥も飛ばず、風もない。動きのあるのは舟上だけだ。途方に暮れるほど広い、空と地に囲まれた小舟の上で、ラジは逆にのしかかるような閉塞感を覚えていた。
 空気は鱗粉をまき散らしたようにあえかに輝いている。照りつける光とあいまって、よけいに視界を白々とさせていた。白日夢に似ている。そよ風でも吹けば、川床に流れる砂金のごとく、空気はきらきらと瞬くだろう。病を患い死期を悟った者には、世界が輝いて見えると聞いたことがあった。その視界はこの河のほとりと重なっているのだろうか。
 ラジは目を細めた。そう、ここは死を迎えた者がゆくところ。もとより時など流れていないのかもしれない。不浄(死)に捕らわれたのだから、閉塞を感じるのは当然なのだ。妙に合点して、ラジはへさきに立つ役人の後ろ姿を眺め見た。尾羽のついた黒衣、黒は不浄を表す色だ。へさきに大きなカラスが止まっているようにも見えた。ガートの火葬場に集まるカラスを連想させる。
 老婦の筋張った腕の中で乳飲み子がむずかり始めた。
「おお、おお。よしよし」
 枯れ枝のような腕を揺すってあやすと、乳飲み子は老婦の青い薄布にほおずりをしておぼつかない声を上げた。四十がらみの男が、その小さな掌を指先でくすぐりながら尋ねる。
「可愛いなあ、お孫さんかい?」
 男は小柄で年相応に腹をたるませているが、両肩は労働で蓄えたと見えるいかつい筋肉で覆われている。一張羅であろう割合上等な白シャツは、けれど少々薄汚れていた。出稼ぎから戻る途中にダルブーラムへ寄ったと語っていた。
「いんや、宿に泊まってた若い夫婦の子さ。気の良い夫婦だったのに、こんな可愛い子を先に亡くすなんてなあ。どれだけ嘆いてることか……」
 老婦が答えると、出稼ぎ人は目に涙を溜めてしんみりとうつむいた。猫背男も眉尻を下げてうんうんと相槌を打っている。その様子を、ラジの右隣の男はいくぶん冷めた目で見つめていた。人情味に乏しい男だと、ラジはますます呆れてしまう。
 乳飲み子のふくふくとした頬を皺だらけの指で撫でつつ、老婦は続けた。
「わたしゃ好き勝手生きてきたから、思い残すことなんてそんなにありゃあしないけどねえ。この子は生まれ出ること以外は全部やり残してきたんだねえ、可哀相に」



 ――――そのとき、金色の目玉がまばたいた。



 一瞬の暗転にくらりとする、ラジはその音に弾かれて辺りを見回した。役人がへさきでふり返る。
「機が熟した」
 そう言い放ち、長い腕をまっすぐに上げ天を指す。すると、老婦の腕に抱かれていた乳飲み子は、またたく間に蒸発し掻き消えてしまった。
 何が起こったのか分からず、ラジは空っぽになった老婦の腕の中をただ凝視していた。当の老婦も他の客も、動きを止めて呆然とそこを見ている。香の煙に似た乳飲み子の残滓が、うっすらと立ちのぼっていた。
 シン、と静まり返った。凪いでいるので、舟上は完全に静止したようだった。
 たっぷりと間を置いて、役人の腕が降ろされる。
「乳飲み子の魂は道理により、次の道を歩み始めた」
「次の道!?」
 ついて出たラジの言葉を受けて、右隣の男がさも知ったふうに答える。
「転生の道のことだろう」
 役人は深くうなずいた。そして、
「自らの魂がし残したことを、皆、考えてみるがいい。次の道を迎える準備、そのための舟旅だ」
 薄く笑って向き直り、また遙か前方を見つめ始めた。





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