き ん い ろ の か わ


〔1〕





 カウンターの内側で伝票整理をしていると、隣で由佳さんが独り言のように言った。
「五番テーブルのふたり、別れ話してる」
 目を上げると窓際のその席では、私と同年代のふたりがうつむき加減で沈黙していた。なんとなくそんな感じ、そう呟く由佳さんの声はさりげなさすぎて、俗な噂話にはそぐわない。通りを眺めるような眼差しでふたりの様子をただ見ている。私もいくらかの興味を持って、伝票と五番テーブルへ、交互に視線を移してみた。
 終わる瞬間を静かに見届けているのか、それとも牽制しあっているのか、ふたりは少しも動かない。窓の外ではまだ青い銀杏の葉が揺れて、滞りなく時が流れているのを示している。昼間が疲れを見せ始めた時刻、ふたりの胸の内を表すように、秋の空はどんよりと曇り始めていた。
 やがて、男がひどくぎこちない動作で珈琲カップを口元へ運んだ。女は顔を上げ、なにかを告げる。二言、三言、言葉を交わし合ったように見えたあと、急に女は立ち上がった。そして、テーブルの上にお札を一枚置いて、足早にこちらへ――――カウンター横の玄関へと向かう。ブーツの踵を高く鳴らせながら。たっぷりとした茶色の巻き髪が揺れる。弾む髪のあいだから表情が窺えた。女の目はあきらかに熱く潤んでいた。踵が打ち鳴らす尖った音に、男に対する怒りを感じる。
 出て行くのを見届けてから、ことさら非難めかして由佳さんへささやいた。
「あーあ。泣いちゃった」
 けれど、由佳さんの見解はまるで逆だ。
「彼のほうがふられたんだよ」
「なんでですか? だって、絶対泣いてましたよ、あの子」
「そうじゃなかったら、自分の珈琲代置いていくはずないと思う」
 合点がいった。すごい観察眼ですね、感心すると、
「長生きしてるからね」
 私より十も歳上の由佳さんは、ふざけて自嘲気味に微笑った。
 取り残された男は女を追うこともなく、まだ別れ話が続いているかのように席についていた。椅子に浅く腰かけ手足を投げ出し、微動だにしない。テーブルの上をじっと見つめている。落胆、とでもいうべき姿。由佳さんの見解は当たっているのだろう。
 ほどなくして雨が降り始めた。雨降るって予報だったかしら、と中年女性数名が騒ぎながら来店し、男はようやくそれに気付いたようだ。忌々しげに、窓から空を睨み付けていた。
 店は急に混み始めた。私も由佳さんも接客に戻り、それ以上男の様子を観察することができなくなった。
 夜に向かって、窓の向こうは徐々に暗くなっていく。雨は止む気配を見せない。もとより、夜更けには雨という予報だったから、少しばかり早く降り始めただけのことだ。
 ふいに男が立ち上がったのを目の端に認めた。止まない雨に見切りを付けたのだろう。伝票と女が置いていったお札をつかむと、レジへまっすぐ向かっていく。私はカウンターへ入り、男の手から手切れ金のようなそのお札を受け取った。男の顔をちらりと覗く。
 長めの前髪がかかる、切れ長の目。その瞳は思いのほか落ち着いて、川底に沈む黒い小石のように――――冷ややかで、静かだった。
「ありがとうございます、またお越し下さいませ」
 私と目を合わせることもなく、お釣りをポケットへ押し込んで足早に通りを歩いて行った。傘の代わりに左手をかざして。
 それを見て由佳さんが声を上げた。
「忘れ物の傘、レジの下にあったよね?」
「……これですか?」
 貸して、と私の手からビニル傘を受け取り、由佳さんは男を追って出て行った。けれど、すぐに戻ってきた。心から気の毒そうに由佳さんは言う。
「もう見当たらなかった。もう少し早く気付けばよかったな、あーあ」
 なにも悪くないのに、まるで自分のせいで男が雨に濡れたような口ぶりだ。由佳さんは優しい。そんな由佳さんがいとおしくて、私はあえてねぎらいの言葉を呑み込んだ。そして責めるみたいに「あーあ」を真似た。
「あーあ、かわいそう。あーあ、不憫だな。ふられたうえに雨に濡れたんじゃ、ヘコみますよね」
 由佳さんも負けてはいない。おどけた声で、
「あれえ? リコちゃんにそんなセツナイ気持ち、理解できるのかなあ」
「分かりますよー。失礼しちゃう」
 軽口に乗って故意に拗ねてみせた。だけど嘘。いままで一度もふられたことのない私には、そういう気持ちは想像できなかった。
 たったいま見た、男の瞳を思い出す。恋が終わりを迎えた瞬間、ひとがどんな瞳をするものなのか、私は知らなかった。私の恋は、終わりを迎えたことがないからだ。
 都内にあるこのカフェレストランでアルバイトを始めてから、すでにいくつかの季節が過ぎている。短大を卒業したあと、一度は就職した。辞めたのは一年もたたないうち。仕事に不満はなかったけれど、つまらない人間関係に巻き込まれ辟易したからだ。女子社員同士の対立とかイジメとか、くだらないし興味ない。勝手にやればいいのに、傍観者でいることは許されなかった。私の歩調を乱された、そう感じたとき退職という二文字が、ふうっと降りてきたのだ。
 就職活動をまったくしていないわけではない。けれど、特別にやりたいこともなく、実家で暮らしているため窮することもない私は、どうしても熱心になれないでいる。正直に言えば、私はこの居心地のよいバイト先で安穏と働いていたいのだ。
 怠惰な自分を戒めて、ごくまれに面接試験を受けに行く。が、本心はいともたやすく見抜かれる。採用通知がこないことに安堵するような私なのだから、正しい評価だと思う。
 白を基調にした落ち着いた雰囲気の店内、漂う珈琲の香り、すっかり馴染んだ数名のスタッフ。心地よいものに囲まれて、二十二歳の秋を穏やかに過ごしていた。




 電車のダイヤが乱れ、待ち合わせの時刻にだいぶ遅れてしまった。すっかり冷たくなった夕風のなかを、メールで指定された居酒屋へ向かって歩く。店はビルの七階だった。エレベーターに乗り込み、備え付けの鏡で身なりをチェックする。長い黒髪はひたすらまっすぐに降りていて、睫毛は濃い影をナチュラルに落としている。完璧だ。少しだけ気取った自分を確認した。
 入店すると、つきあたりの個室から友人のひとりが手を振った。
「リコ、おっそい!」
「ごめんごめん、人身事故だって。まいったよ」
 個室には、気の置けない女友だちと、まだ知らない数人の男。私たちは出会いと暇つぶしを求めて、たまにこんな呑み会を開いていた。
 私が姿を現すと、男たちは一瞬、目を瞠って私を評価する。彼らが相好を崩し、瞳に期待の色が宿ると、私は優しい気持ちになることができた。単純だけど、我ながら可愛げのある正直さだと思う。
 手前の席に腰かけて、「初めまして、リコです」と手短に自己紹介をした。
 私の名前は理子と書いてサトコとよむ。けれど、友人はみなリコと呼んだ。自分でも気に入って、そう自己紹介するものだから、ますますみなリコと呼ぶ。本名を知らずにいる知人もいるかもしれない。
 彼らは、社交性と主体性のある者から自己紹介を返してくれる。一番最後、仲間に促されてようやく口を開いた男に、見覚えがあった。
「……どこかで会わなかったっけ?」
 思わず問いかけると、彼は困惑気味に目を泳がせた。すると、友人のひとりが呆れたように笑って言った。
「ちょっとちょっとリコ、ドラマの見過ぎなんじゃない?」
「そんなんじゃなくて、ほんとにどこかで会ったと思うんだけど」
 初めに自己紹介をした男が、彼をつつく。
「まじ? どこで? おまえ思い出せよ」
 彼は首を傾げて記憶を辿っていたようだったけれど、本当に覚えがないらしい、やがてぼそりと返事をした。くぐもりのある低い声だ。
「……そうだっけ。ごめん、分かんない」
 そして、切れ長の目を伏せた。
 そのとき思い出した。半月ほど前に、別れ話をしていたあのひとだった。
「どこかで会ったと思ったんだけどなぁ、気のせいかなぁ」
 みなの手前、あの日のことは口にしないほういいだろう。笑ってごまかすと、友人からこんな声が上がった。
「もしかして、運命なんじゃない?」
「もー、いつもそんなことばっか言って。運命なんてないってば」
 冷やかす友人を笑みでたしなめ、それから、そうっと溜め息をついた。
 運命。唯一のひと。至上の恋。みな、すぐにそんな言葉を使いたがる。特別である必要などどこにもないのに、色々な言葉で出会いを飾りたがる。自分の外見や中身を飾り立てるのと同様に、恋をも飾りたい。そして、鏡の前で化粧に没頭するように、恋に没頭したいのだ、永遠に愛しているような気になって。けれど、別れはやがて訪れる。特別だったためしなど、一度だってあるのだろうか。
 しばらくすると場にまとまりがなくなり、個室のなかには話題やノリの合う者同士のグループが出来上がる。化粧室から戻ると、別れ話をしていた彼はひとり壁に寄りかかり携帯をいじっていた。こういう呑み会はあまり得意ではないのか、彼は始終端の席につき、積極的に話すことなく聞き役に徹していた。もしかしたら、人数を合わせるために呼ばれたのかもしれない。彼ととくに親しいと思われる男も、このなかにはいないようだった。
 私は元の席には戻らずに、所在なさそうな彼の隣りに座り込んだ。携帯をいじる手をぴくりと強張らせた彼は、少し驚いたふうに私の顔を見る。しばしの沈黙のあと、おもむろに口を開いた。
「どこで会ったのか、思い出したの?」
「この間、私のバイト先に来たの、覚えてたんだ。駒沢のカフェレストラン」
「……ああ」
 つまらなそうに彼は納得した。あの日のことを思い出していたのか、それとも次の話題が出てこないのか、彼はしばらく無言のままテーブルの上に視線を落としていた。こちらから話題を振ろうとした矢先、そのままの視線で再度口を開いた。
「あの日、俺、ふられたんだよね」
 抑揚のない声、まるで他人事のように言う。
「なんとなくそんな雰囲気だなあって思ってた。彼女のほうが泣いてたみたいだったから、初めはふったのかと思ったけど」
 すると、彼はこちらを向いて、
「そう、わけ分かんないよ」
 呆れを含んだ声音で吐き捨てたあと、また視線を落とした。由佳さんが傘を持って追いかけたと教えると、なさけなさそうに薄く笑んだ。
「あいにく、そんなにヘコまなかったよ。あの子とは付き合い始めたばっかだったし、思い出す思い出なんかなにもないからね」
 自嘲気味に笑みを浮かべた彼の目は、あの日と同じく川底の黒い小石のように静かで冷ややかだ。
 そうして、メールアドレスを交換した。フミキという名前と見慣れない半角英数字が、私の携帯に登録された。



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