解 放 者 た ち

【第九章】

〔1〕





 宿の中庭にある雨ざらしの長椅子に、女将から借りてきた鏡立てを置いた。真冬の日差しを反射して、鏡面がきらりと光る。日除けの薄布をふわり、上半身を覆うように肩へ掛け、首にきつく結びつける。そして、長椅子の前、草の上に胡座を組んだ。同じく女将に借りたハサミを手にして、ティセは自らの髪を切り始める。栗色の髪がパラパラと薄布の上を滑り落ちていく。
 小さなころは母が髪を切ってくれた。けれど、初等部へ上がりしばらくすると、母はだんだんとそれを渋るようになった。やがて、伸ばしたらいいじゃないと怖い顔をして、ティセの頼みを聞かなくなった。父に頼んでみたが、父は母の顔色を窺い、困ったような顔を向けるだけだった。それからはラフィヤカに頼むか、手っ取り早く、自分で切るようにしていた。
 ちゃきちゃきと小さくも軽快な音を立てて、形を整えていく。あっという間に、ティセの髪はふた月前と同じ長さになった。ぐしゃぐしゃにかき混ぜて、髪の切れ端を落としてしまう。よっしゃ、と鏡のなかへ笑む。
 長椅子の端のほうに腰かけるリュイが、本を開いたまま、その様子を興味深げに眺めていた。
「いつ見ても思うけれど、器用だな……」
 立ち上がり、首に巻いた薄布を取ってはたきながら、
「おまえの髪も切ってやろうか?」
「…………いい」
 ティセほど髪の短い少女はいないが、リュイほど髪の長い少年も、またいない。ティセは改めて、リュイの耳際に揺れる、わずかに波打つ長い髪を見る。
「邪魔じゃないの?」
「いや、少しも」
「そういや、なんで髪伸ばしてんの?」
 リュイは暫し黙っていた。
「……分からない。気づいたら伸びていて、慣れてしまっただけだ」
「でも切らないの?」
「慣れたからいい。……けれど、ちょっとそれを貸して」
 リュイは前髪にだけ縦にハサミを入れて、読書の邪魔にならない程度に切り落とした。


 昼前にある町へ辿り着いた。シュウ南部のそこそこ大きな町の中心には、必ず広場がある。国家主席や国士の像を中心に、茶屋や簡易食堂、さまざまな店舗や露店が広場を囲む。イリアでも王族の肖像はあちこちに掲げられているが、銅像や胸像といったものを見かけることはあまりない。町の中心にあるのは、多くの場合シータ教寺院だ。
 けれど、シュウのシータ教寺院は町の片隅にひっそりと建てられていることが多かった。そのうえ、寺院の壁を覆う白タイルは古びて劣化が進んでいる。明かり取りの窓枠を飾る唐草模様の浮き彫りも、日差しや風雨に侵され欠けた部分が修繕されず、そのままになっているのをよく見かけた。落ちぶれた寺院の佇まいは、まるで忘れ去られた古い神が孤独のなかに瞑想しているかのように見えた。出会ったばかりのころ、シュウの現政府は宗教を奨励していないとリュイが言っていたのを、ティセは実感とともに思い出していた。

 広場はたいへんな人出だ。市場へ買い出しにやって来たひとびとのほか、暇を持て余した老爺たちが所在なさげに辺りをうろついている。
 茶屋では駒を用いて競う盤遊戯を置いていて、老爺の多くは賭けごとに熱中している。卓に向かい合い、眉間に皺を寄せて熟考するふたりの老爺を、見物の老爺たちがぐるり取り囲み、好き勝手な指示を声高に与えている。
「おい! そんな手あるか!? そうじゃねえだろう!」
「あああ! だからさっきの一手は間違いだと言ったんだ」
「そこだそこ! そこに置け!」
 いまにも喧嘩が始まりそうな勢いで、口角泡を飛ばしている。遠目に覗いてみたら、イリアの盤遊戯とは駒の形も遊戯の規則も若干異なっていた。
「年寄りはどこの国でも同じだなあ」
 呆れ気味の声で感慨を漏らせば、リュイはふっと笑い、
「日がな一日ああしているね」
「おまえ、盤遊戯のやりかた知ってる?」
「知らない。したことがない」
「やっぱりな」
 同年代の、とりわけ少年であれば誰もが知っている遊戯の規則を、リュイはきっと知らないだろうとティセは思ったのだ。
「こんど教えてやる。俺、けっこう強いよ」

 こうしてシュウ南部を歩いていると、ひとびとの衣装の多彩さに驚かされる。南部のシュウ人は、男であれば足首近くまである丈の長い上衣を着ている。布は決まって無地で、白や灰色、浅葱色、薄茶色などの落ち着いた色合いだ。女たちも同様に丈の長い上衣であるが、男たちのものとは違い、身ごろは裾へ向かって幅広になっている。くるりと身を回せば、花が咲くように裾が円く膨らんだ。色目は明るく、襟もとや袖口、裾に刺繍や染め模様が施されている。妙齢の女が連れ立って裾をなびかせていると、とても華やかに映った。既婚者や年配になるほど、歳相応に布地の色目は控えめになり、裾も幅狭くすっきりとしていくのだった。

 イリアほどではないが、シュウでも洋装が浸透しつつあるようだ。都市部では洋装の男たちをちらほらと見かけた。ひと目で上流階級や富裕層だと分かる風貌で、庶民のあいだにまでは広まっていないのが分かる。
 イブリアであれば、セザの一家がそうであったように、丸襟の上衣と腰巻きを纏っている。大人の男はトルクを巻いている。都市部にかぎり、シュウ人の衣装や洋装を身につけたイブリアを見かけた。リュイへ尋ねたら、
「たぶん、革新派と呼ばれるひとびとだと思う。南部の都市部に多いそうだ」
「革新派!?」
「新しい思想を持ったイブリアだという……僕にはよく分からないけれど……」
 リュイと似た衣服を身につけたシュウ人もまれに見る。同じく北部出身のひとびとだ。はるか北から訪れた彼らは一様に、そこはかとなく緊張感を漂わせているように見えた。微笑んでいてさえも、どこか重々しく畏まっているような印象を受ける。北部のお国柄というものだろうか、彼らを眺めていると、リュイが北部出身であるということが、ティセにはひどくうなずけた。

 シュウへ入国してすぐに気づいたが、青年以上の男たちは銃や短剣で武装をしているものが少なくない。とくに、北部出身と思われるひとびとは例外がなかった。
 イリアの国土は決して広くはなく、シュウに比べれば数分の一しかない。国内は画一的であり、地方それぞれの特色はあれど、ここまで強くはない。ひとびとの多彩さが、ティセには非常に興味深く思えるのだった。
「ひとを眺めるのがおもしろい国だ……」
 リュイは横目で、
「おまえのほうこそ、穴が開くほど眺められているけれど、気づいている?」
「気にしない」


 広場の片隅にある安食堂へ入った。戸口に近い席を取り、荷物を降ろす。盆が運ばれてくる前に、ティセは店の奥にある厠へ向かった。
 戻ると、取った席の横にひとが立っていた。戸口から差し込む光で逆光気味になってはいたが、十代後半と見られるシュウ人の男だと分かる。リュイへ話しかけていた。ティセはなんとはなしに足を止めて、耳を傾けた。
「きみも休暇中なのかい?」
 若者はそう尋ねた。
「いえ、僕はまだ十五です」
「ええ!? 十五? そうなのか、てっきり同い歳くらいかと思ったよ。じゃあ、まだ二年はあるね」
「はい」
 若者はやれやれと言いたげに大きな溜め息をつき、
「本当に大変なことばかりだよ。きみもいまから、充分覚悟しておいたほうがいいぜ」
 憐れむように微笑んで、じゃあ、と店から出て行った。

 席へ戻ると、ちょうど定食が運ばれてきた。手をつける前に、
「ねえリュイ、いまのは何の話?」
 リュイは白米とほうれん草の炒め煮を混ぜる手元を見ながら、
「徴兵の話だ。シュウには徴兵制がある。彼は兵役に就いていて、いま休暇中なんだ」
 思いも寄らない返答だったので、ティセはつい大きな声を上げる。
「そうだったの!? ……全っ然、知らなかった……!」
 目を見開いて驚くティセに、リュイは食事の手を止めもせず、「そう……」と素っ気なく返す。
「……それは、いくつから何年間くらいなの?」
「十七歳から二十歳になる前日までに入隊して、三年間兵役に就く」
 静かに答えたリュイを、ティセはじっと見つめてしまう。
「おまえも……行くんだよね……」
「当然ね……」
 淡々と食事を続ける、ティセはそんなリュイを、なんとも言い難い思いでますます深く見つめた。
 イリアには徴兵制はなく、軍人は皆、職業軍人だ。学校で習ったので、その制度については知っていた。が、遠い国の出来事として、深く考えたことなどなかった。

 ティセの周りでは、ナルジャにいた兄貴分が、数年前に志願して入隊している。春に家出したころ、久しぶりの休暇で村へ戻っていたのに、ティセは故意に会わなかった。初めての休暇で村へ戻った際には、まだ疎遠になっていなかった四人の仲間たちとともに、軍隊の話を聞きに行った。兄貴分の話は充分におもしろかったが、女であるティセにとっては、やはり自分とはかけ離れた関係のない世界でしかなかった。それを思いながら、当然だと沈着に返すリュイを見ていたら、ますます未知の存在に思えてならなくなった。

 のろのろと、ようやく食事に手をつける。と、リュイは目を上げて、
「けれど、以前と違ってだいぶ緩和されたから、行かなくて済む方法もある」
「たとえば?」
「高額の免除金を納める。大学に進学して医学や科学の道へ進む。ほかには、兵役よりも長い期間になるけれど、決められた施設で労働するとか……あるいは、行方不明になる」
「行方不明……!?」
「おそらく、僕の兄は徴兵から逃れたはずだ。長いこと行方が分からなかったのだから」
「そっか……」
 リュイは目を手元へ戻し、
「僕もこのまま旅を続けていれば、兄のように逃れられるかもしれない……」
 ティセはふと思いつく。
「おまえは免除金払ったらいいよ。リザイヤ売った金でさ」
「……そうか、その手もあった」
 ライデルの幹部へ預けた大金について、忘れていたのだろう。名案を受けて、リュイはふっと笑みを過ぎらせた。


 南東部地方最大の町カウゼンは北西に炭鉱を有し、東部は大きな川に接している。川ははるか南、シュウの最大都市バンダルバードの海へ通じている。対岸にある渡し場で欠伸が出るほど待ってから、ふたりは渡し船に乗り込んだ。船の手摺りにもたれ、採掘した石炭を積んだ船が南へとゆっくり進んでいくのを、ティセはしみじみと眺めていた。冷たい川風の向こうに見えるカウゼンの町が、少しずつ近くなっていく。
 あまりに長く船の出発を待ったため、カウゼン側の渡し場についたときには、すでに日暮れが迫っていた。とりあえず近場の宿を取り、イブリアが多く住むという一画の場所だけ確認し、いち日を終えた。

 宿の主人にイブリア街への道筋を尋ねるリュイを、ティセは複雑な思いで見つめていた。
 リュイは笛を探していない、少なくとも、積極的に探し出そうという気持ちはない――――……。セザの家でそれを確信してしまったからだ。旅の本当の目的を語らずに、こうしてイブリア街を訪ねようとしている。いったい、どんな気持ちでそうしているのか、少しも分からなかった。
 そして、セザたちへ向けた戸惑いを含んだ眼差しや態度を思い出していた。リュイは故郷のイブリアに対しても、どこか気後れしたように接するのだろうか。本当はそこへ行きたくはないのではないか…………。しかし、行き先を変えようとリュイは決して言わないし、変えたいという素振りも見せはしないのだった。
 そこまで考えながらも、ティセはイブリア街へ行くのを心のなかで強く望んでいた。そこへ行けば、リュイをもっと知ることができるかもしれないと思うからだ。少し意地悪だろうか…………けれど、紛れもなくそれが本心だった。


 風は冷たいものの、日差しの強いさわやかな朝を迎えた。賑やかな広場を抜けて、西へ伸びる通りを行く。両側には食堂や商店が立ち並び、香辛料や茶の香り、売り子の掛け声が流れてくる。この道をしばらく行くと西の市場があり、その裏手に広がる地区がイブリア街だという。
 さすがにカウゼンは、イブリアのひとびとが多く目についた。目に入る者の十人にひとりくらいはイブリアではないかというほどに。イブリア街が近くになるにつれ、いっそう増えていく。

 道の先から浅黒い肌をしたわんぱくそうな男児が数人、大きな声でふざけあいながらバタバタと駆けてくる。そのうちのひとりが、穀物の袋を担いだ荷運び夫を除けようとして、ティセに大きくぶつかった。
「いたっ……」
 男児は屈託なく笑ったまま、
「すいませーん」
 よろめいたティセに顔だけ向けて、仲間を追いかけていった。
「まったく……よく周り見ろよ」
 走り去る男児を呆れ顔で見送り、前に向き直りかけた――――そのとき。
 すぐ横の金物屋のなかにいる少女が目に留まる。薄暗い店内で、柱に鈴なりに吊された薬缶を選んでいる。シュウの女の衣装を纏っているが、イブリアの少女だ。ティセははっと目を見開いた。薬缶をじっと眺めるその横顔をひと目見ただけで、疑う余地はないと思った。それほどまでに、似ていたのだ。
「リュイ!!」
「なに?」
「……おまえの妹がいる」

 数歩前を行くリュイが、ぴたりと足を止める。ゆっくりと振り向き、会ったことなどないにも拘わらず断言口調で告げるティセへ、訝しげに目を向ける。
「なにを言って――――……」
 ティセの注目しているほうへ目を移した、途端、リュイはすべての動きを止めた。全身のあらゆる部位を、表情を、呼吸を――――おそらくは思考や意識さえも。その、時の途絶えかたは静止ではなく停止――――ラグラダの村で「おまえの村へ行こう」とティセが言ったときに見せた停止とまるで同じ……否、それ以上だ。リュイは完全に硬直した。
 と同時、ふたりの強い視線に気づいたかのように、店内の少女はふっとこちらを振り向いた。や否や、暗緑の瞳を大きく見開いて、リュイと同じように呆然と立ちすくむ。
 正面を捉えれば、誰がどう見ても間違いようがないまでに、少女の姿は血を分けた兄妹であるのを如実に示していた。

 暫し、ふたりは少しも動かずに見つめ合っていた。やがて、妹は弾かれたように駆け出した。首の後ろで結んだ黒髪が跳ねる。店にいるほかの客を押しのけて、店外へ走り出る。くすんだ黄緑色の衣装がふわりとなびき、強い日差しに明るく染まる。立ち尽くしたままのリュイの、数歩手前で立ち止まった。
 驚きのあまり声が出ないかのように口をつぐみ、リュイの顔をまじまじと眺めている。前髪を作らず露わにした額、生え際の細い毛がそよ風に揺れていた。大きな瞬きを幾度かくり返してから、妹はようやくリュイへ声をかけた。少女たちが持つかしましさを少しも感じさせない落ち着いた声音は、兄のそれとどこか通じていた。
「……どうしてるか、ずっと心配してた…………まだ旅を続けているの……?」
 胸元に両手を重ね、瞳を震わせる妹を、リュイは固まったまま、ただ見つめていた。信じられないものを目の当たりにしている、そんな目つきだった。不審に感じるほど長く間を置いたのち、どうにもぎこちなく唇を動かして、
「…………何故……ここに……?」
 とても小さく問うた。
「北のほうで事件が続いてたでしょう。この町に住んでる養父(とう)さんの親類が心配して、ここへ呼んでくれたの。もう二年になる……」
「……そう……」
 妹はティセに軽く目を向けてから、
「……こちらは?」
 リュイはなにも答えない。というよりも、答えられない、唇が動かない、そんなふうに見えた。
 ティセは一歩踏み出して、場を和ませるように笑んで名乗った。
「セレイでしょう? リュイから聞いてるよ。俺はティセ・ビハール。リュイとは春から一緒に旅をしてるんだ」
「一緒に? ……そうなの……」
 セレイはふたたびリュイを向き、
「いつここへ?」
「……昨日……」
「どうしてここへ――――……ああ! とにかく、うちに来て! すぐそこよ」
 いよいよ感極まったようにセレイが言うと、リュイはいっそう顔を強張らせた。警戒しているようにも、怯えているようにも見えるその様子は、甚だ不自然だ。自宅へ招いている実の妹に、リュイはひとことも返さない。
 なにかを察したのか、セレイはほんのかすかに微笑むと、ひそやかでありながら確かな口ぶりで、囁いた。
「養父さんも養母さんも、きっと歓迎するわ。なにも心配いらないの」
 ティセを向き、にこりとして、
「あなたも来て。あなたの話、ぜひ聞かせて。さあ」
 自宅へと手招いた。
 立ちつくすリュイの左肩に、ティセは手をポンと置き、
「ほら」
 促した。瞬間、はっとした。その肩は死んでいる者のように冷たく硬直していた。思わず覗いた瞳は、いままで見たなかでいちばん、翳が濃さを増していた。リュイはひどく静かに、とてつもなく激しく取り乱しているのだった。
「……リュイ……?」
 囁いたティセの声は、少しも耳に届いていないようだった。



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