解 放 者 た ち

【第八章】

〔1〕





 ある集落のはずれ、カブ畑の脇の空き地で昼下がりの小休憩を取った。大きな樫の木が休憩にちょうどよい木陰を作っている。草の上には夥しい数のドングリが転がる。向こうの繁みの辺りには数匹の栗鼠がいて、小さな旅の一団をキョロキョロと窺っていた。晩秋の空は気持ちよく晴れ渡り、肌をきりりとさせる冷たい風が吹いていた。
 子猫が一匹、畑のなかからやって来た。飼い猫らしく、とても穏やかで無垢な瞳をしている。木漏れ日の下、胡座を組んで読書するリュイの前まで来て、子猫は足を止めた。リュイは少しだけ目を上げて、鳶色の子猫を静かに眺めている。ひとりと一匹は、似た色の瞳で見つめ合う。やがて、子猫はそろりとその左膝に乗り、身体を器用に丸めて微睡み始めた。
 リュイは追い払うでもなく、かといって撫でてやるでもなく、猫を乗せたまま読書へ戻る。我関せず――――……あいつらしいなぁ、ティセはニヤリと笑んだ。
 背筋を伸ばし、ぴたりと静止して本を読むいつもの姿。けれど、こうして猫を膝の上に乗せていると、まるでその小さな微睡みを守るために静止しているように見えるのだった。無頓着が慈しみに見える、不思議なものだと感慨を深くしつつ、リュイと猫を眺めていた。
 ティセにもたれて微睡んでいたフェネが目を開けた。まぶたを両手でごしごしする。
「ん、起きた? 俺、足が痺れちゃったよ」
 まさに、その小さな微睡みを守るため、ティセは足を組みかえることができずにいたのだった。

 自由になった足を伸ばして痺れを取ると、そろそろ退屈を覚え始めた。子供じみたいたずら心が頭をもたげ、尻の辺りをむずむずさせる。ティセは頭陀袋から丸めた手巾を取り出した。手巾に包まれているのは、手のひら山盛り分のオナモミだ。
 ひとつつまんで、無言のままリュイへ投擲。オナモミはゆるやかな放物線を描き、襟もとの薄布に張りついた。リュイは本から目を上げず、それをそっとつまんで草の上に捨てた。なにも返さず、読書を続ける。
 ……得意の無視か……
 またひとつ、オナモミを投げつける。右膝に付着した。リュイは読書を続けつつ、つまんで捨てる。次のオナモミは左袖に、その次は本の上にぽつんと着地した。
 リュイは短く息を吐き、ちらりとティセを見る。ティセはしれっとして、斜め上を向く。
「くだらないことをするなよ」
 冷ややかに告げて、本へ戻った。やや間を置いて、ティセはフェネと目を合わせる。ふたり同時に口角を上げる。次の瞬間、ふたりがかりの猛攻撃が始まった。リュイはオナモミの集中砲火を浴びる。
「ち、ちょっと……やめてくれないか」
 ティセはもちろん、フェネも楽しげに投げつける。眉をしかめるリュイは、「フェネまでなんだよ」と言いたげだ。
 衣服にたっぷりとオナモミをつけたリュイは、ついに立ち上がる。膝の上の子猫が転げ落ち、不満そうにニャアと鳴く。忌々しげにふたりを見下ろすと、リュイはふいと背を向けて、栗鼠がいた繁みのほうへ歩き始めた。
「なんだよ、逃げんなよー」
 手応えのなさに不服を言う。リュイは前を向いたまま低く、
「小便」
「……あっそ」
 子猫は後ろ足で首筋を盛大に掻いたのち、畑のなかへ戻っていった。

 しばらくしてから、リュイはいつもの無表情で戻ってきた。大量のオナモミはすべて払われている。またオナモミを収穫しなければと、ティセは苦笑う。
 リュイは荷物を背負い、
「そろそろ行こう。ほら、立って」
 ティセの背中をぽんと叩いて促した。
「はーい」
 すっかり陽が短くなっていた、夏の間ほど長くは歩けないのだった。よっしゃ、と立ち上がり、頭陀袋を勢いよく担ぎ上げて背中に負った――――そのとき、強烈な違和感をそこに覚えた。
「…………っ!?」
 慌てて荷を降ろし、左手を背中に回す。
「あああっ!!」
 手のひらいっぱいのオナモミが一塊となって張りついている。思わず上げた叫び声に、リュイは少しも反応しない。なんとも湿っぽい反撃に呆れ返り、その後ろ姿を睨めつける。
「……こんのぉぉぉ…………陰険野郎――――っ!!」
 フェネがティセの惨状を見て、可笑しそうに身をよじっていた。
「…………フェネまでなんだよ……」


 タミルカンドへ入国したのは秋の初めだった。実りと食欲の季節が過ぎつつあり、近頃は朝晩の冷え込みが身に染みる。旅は順調、フェネを追っていた男たちは、あれ以来姿を見せていない。とうとうあきらめたのだろう。
「どう話をつけたのさ」
 尋ねると、リュイは穏やかな顔をして、
「少し脅かしてみただけだ」
 それ以上は語らなかった。落ち着き払った顔つきが、かえって凄烈な一幕を想像させた。いったいどんな怖ろしいことをしたのかと、ティセは身震いをした。リュイはどこまでももの静かで、そして、どうにも怖いひとだ、改めて思うのだった。
 フェネはすっかりリュイと打ち解けている。初めのうち、あれほど怯えていたのが嘘のようだ。当のリュイはさほど変わりがないのだが、フェネとふたりきりにされても、さすがにもう困惑の表情を見せはしない。三人はとても平穏に、ときにじゃれあい、ときにむっとしあいながら、深まりゆく秋の大地を歩いていく。


 タミルカンドを進むうち、まれにではあるが、リュイと似た肌の色をもつひとびとを見かけるようになった。この国に暮らすイブリア族だ。彼らだけの村や町があるのではなく、血縁がいくらか集まって、タミルカンド人の集落のなかにある程度同化して暮らしているようだった。
 リュイを眺めるひとびとの視線から、ものめずらしさが少しずつ失われていった。リュイが以前ほど目立たなくなっていく。代わりに、タミルカンドのひとびとよりは幾分彫りの浅い顔をしたティセが、注目を浴びるようになっていた。イリアを出てからすでに半年以上が立ち、ものめずらしげに眺められることにはもう慣れてはいた。が、都会が落ち着くと言ったリュイの気持ちが、よく分かったような気がしていた。
 それでも、リュイが注目を集めないわけはない。たぐいまれな容姿の美しさが、ひとびとを振り返らせる。近寄りがたさを漂わせる少年と、一風変わった顔つきの少女にも見える少年、旅をするには幼すぎる少女――――小さな旅の一団は、甚だひとの目に立った。
 嫌疑の籠もった不審の眼差しにも出会ったが、好奇と歓迎の心を同じだけ持つ親切なひとびとも多くいる。三人は行く先々で、ささやかながらも温かなもてなしを受けた。


 その日も、陽が南西に傾きかけたころ辿り着いた村で、興味の籠もった声をかけられた。
「ねえ、きみたち、旅のひとかい?」
 すぐそこの蜜柑畑から、剪定鋏を手にした農夫がこちらへやって来る。頭の周りに細長く布を巻きつけ、脚衣の代わりにふくらはぎまである腰巻きを身につけていた。驚いたように目を見開きつつも、なごやかに微笑んでいる。三十代と思われる痩身の農夫は、リュイと同じような肌の色をしていた。
 リュイが返答すると、農夫は驚きの目を親しみの眼差しに変えて、リュイをまじまじと眺め見た。純朴さが滲み出たその瞳は、いままで見かけたイブリアの黒い瞳とは異なる、灰色がかった青い瞳だった。目尻にうっすらと寄る皺に、同胞に対する親愛の情が見て取れた。
 まだ宿を取っていないならば是非、と農夫は自宅へ招いてくれた。畑から少しばかり歩いた林の側の、こざっぱりとした木造の民家だ。似たような家が近い場所に二軒建っている。辺りはとても静かで、村の中心からはやや離れているようだった。
 道すがら農夫は言った。
「久しぶりにイブリアに会ったよ。この辺りにはいま、私とふたりの弟の家族しか住んでいないんだ。以前は親戚が多くいたんだけど、みんな町のほうへ越してしまったから」
 農夫はセザ・ウルナ・トゥールと名のった。慣習のとおり、父親の名を継いでいる。
「きみの名は?」
「リュイ・スレシュ・ハーンといいます」
「……リュイ……少し変わった名前だね。けれど、響きのきれいな名だ」

 居間へ通された。セザの数人の子供たちが目を丸くして三人を眺めている。珍客を知って、すぐそこに住むふたりの弟とその家族たちが、興奮気味に集まってくる。
 セザの嫁が真鍮の盆を運んできて、使い込まれた敷物の上にそっと差し出した。その左手の甲に円状の刺青が見えた。盆には甘い茶と、乾燥した桑の実が載っている。飾り気のない居間に茶の香りが立ちこめる。セザの嫁はいままで見かけたイブリアと同じ黒い瞳で、慎ましやかに微笑んだ。
「なにもないけど、遠慮しないでね」
 居間には三人のほか、セザとふたりの弟、そして、ティセやリュイと同年代の、もはや子供とは見なされないふたりの息子が同席した。ほかの子供たちは、居間の入り口や窓の外から遠巻きに三人を眺めている。

 セザはティセを見て、
「きみ、国は?」
「イリアです」
「そう、イリアか、いいね」
 窓の外の子供たちが、「イリア人! 初めて見た!」と色めき立つ。ティセはナルジャにいたころの自分の姿を髣髴とさせて、思わず苦笑してしまう。
「この子は?」
「フェネはシュウ南部の出身です。俺たち、この子を家に送り届ける途中なんです」
「へえ、三人とも郷(さと)が違うなんて、奇跡的な出会いじゃないか」
 セザは青い瞳で穏やかに笑む。まさに言うとおりだと思いながら、ティセはフェネの様子を窺った。知らない大人を前にして少し緊張しているのか、身体を硬くして座っている。が、目は怯えていなかったので、ティセは安心した。

 初めて見た、と子供たちははしゃいだが、ティセもまた、イブリアの家庭に招かれるのは初めてだ。国籍は違えど、リュイと同じ民族であるこの家族に、ただならぬ興味を引かれていた。胸がどきどきしていた。
 室内は一見、いままで招かれたタミルカンド人の一般家庭となんら変わるところはない。生活に必要なものが必要なだけあるといったような、分相応な暮らしぶりが窺える普通の農家だ。
 ただ、そこに集う家族の風貌だけがまるで違っていた。いままで見かけたイブリア同様に、皆、丸襟の上衣に、下は腰巻きを身につけている。丈の長さや結び目の位置に性別はあれど、男も女もだ。そして、男はひだを寄せるように整えた長い布を頭に巻きつけている。リュイが襟もとに巻いているのと似たような、白地に細かな柄のある薄い布だ。セザや弟の子供たちのなかで、同席している年長の息子ふたりだけが、布を巻いている。初めてこの国のイブリアを見かけたときにリュイへ尋ねてみたら、大人の男とみなされた証しだと答えた。彼らの黒い髪にとても映えている。
 ティセは不躾にならないよう気をつけながらも、まじまじと眺めていた。肌の色は同じようでも、彼らの身なりはリュイとはずいぶん違っていると思った。窓枠にかじりつくようになって居間を覗き込む子供たちに目を向けると、一瞬目を怯ませたのち、恥ずかしそうに笑った。気恥ずかしさを覚えつつ、ティセも笑みを返す。はにかむ子供たちの瞳は、父親譲りの青もいれば、母親譲りの黒もいた。
 そのとき、窓の向こう、庭に立つひときわ大きな沙羅樹が目に留まった。太い幹の高い位置に白い布が巻いてあり、黄色を帯び始めた日差しに照らされ輝いている。
 ……あ……
 ティセは思わず、リュイを振り向いた。ちょうど、セザたちとの雑談にひと区切りがついたところだった。リュイもまた、暗緑の目を大木に向けていた。


 セザとふたりの弟はまだ仕事が少し残っているそうで、畑へ戻っていった。夕飯までの間、年長の息子の案内で近くを散策する。村の中心まで行って、小川沿いの小道をゆっくりと戻る。子供たちがわらわらと付いてきた。
 セザの長男アミタブは十七歳になるという。大人びたリュイと並ぶと、同い歳が歩いているように見えた。腰に巻いた生成色の布の裾から、細くて浅黒い脚が覗いている。草履を履いた足が歩を進めるごとに、突き出た踝が跳ねる。ティセは斜め後ろからそれを見て、リュイがそうであるように、どこか野性的なものを感じていた。
 アミタブが頭を動かすたびに、頭に巻いた布の裾がゆらりと揺れる。
「きみ、十五には見えないな。同い歳かと思ったよ」
「そう?」
「シュウに住んでるイブリアは、みんなきみのような格好をしているの?」
 アミタブも、ティセと似たようなことを思っていた。
「いや、きみと同じような格好をしているよ」
 ティセは一歩後ろから口を挟んだ。
「そうなのっ!? じゃあ、おまえのそれは?」
 リュイは前を見たまま、
「シュウ北部の一般的な服装だ。もちろん、もう何度か旅先で作り直しているけれど……」
 暫し、アミタブはなにか言いたげな目で、リュイの横顔を見つめていた。その眼差しが問うことを察したのか、リュイはつぶやくように、
「……僕も、家にいたころはイブリアの服を着ていた……」
 アミタブは頭の布へ右手をやって、
「きみはもうトルクを身につけるべき年齢じゃないか。見た目も大人びているし、トルクをしないのは不自然だよ」
 控えめな口調で忠告した。
「…………」
 リュイはなにも返さなかった。瞬きをひとつして、それから、瞳に困惑の色をかすかに浮かべた。


 セザの家へ戻り、落ち葉舞う庭先で子供たちと話をした。皆、イリアのはなしを聞きたがった。年長のふたりさえも、興味津々といったふうに目を輝かせている。ひと売りの幌馬車でニムルたちが聞きたがったのと同じように、皆、イリアについて、とりわけ大都会イリスについて少なからず憧憬を抱いているのだった。
 諦観しきった目をしていた彼らと違い、目の前の少年少女たちは純粋に興奮するだけだ。あのときティセは話しづらさを覚えたが、気兼ねなく問われるままに話せるのだった。
「イリス行ってみたーい! 何日かかるかなぁ、十日くらい?」
 泥だらけの腰巻きをつけたわんぱくそうな子供が声を上げる。すぐ上の兄か、従兄弟と思われる少年が知り顔で、
「莫っ迦だなあ、すっごく遠いんだぞ、イリアは」
「大人になったら行けるかなぁ」
 目をきらめかせる少年の横で、まだ覚束ない言葉つきの少女が、ぽつりと言う。
「でも、ミイシャはここがいっとう好き」
 すると、全員が暖かな眼差しを少女に向けて微笑んだ。ティセと同い歳ほどの長女が少女の頭を優しく撫でる。まるで、あなたが正しいわ、というように……。満ち足りたようなその微笑みを見て、ティセは胸を突かれていた。
 目の前の子供たちがイリアへ行くことなど、おそらくはないだろう。心のどこかで、それを知ってもいるだろう。けれど、この家族たちは、そんなこととは無関係に幸せなのだ。その明るい顔つきを眺め、ティセはしみじみと感じ入っていた。
 そして、ナルジャにいたころの自分を顧みる。自分を閉じ込める檻だとさえ思っていた、あの村を顧みる。出て行きたくて溜まらなかったあの村が、紛れもなく自分の帰る場所であり、ほかのどこにもありえない唯一の居場所なのだ。はずれの丘から見渡した村の全景を、ティセは思い浮かべる。胸の奥に、小さな芽のような疑問が生まれた。

 そこは、本当に檻だったろうか――――――……。

 子供たちの相手をしているあいだ、リュイは話の輪からひとり外れて、居間から見えた大木を長いこと仰ぎ見ていた。皆と話しながら、ティセはその様子をちらちらと窺っていた。
 沙羅樹の大木はひとりでは抱えられないほど幹が太い。背伸びをしても届かない高さのところに、白い布が巻かれている。トルクと同様にひだが寄せられているが、それよりもきっちり整った美しいひだが拵えてある。その布の上に重ねて、一本の白い縄がきつく結ばれていた。あきらかに信仰の対象だと分かる。
 リュイはやや離れたところへまっすぐに立ち、夕方の色に染まり始めた空を覆う大木を見つめている。祈りを捧げることもせず、ただひたすらに。
 ……なにを考えているんだろう……
 沙羅樹を見つめるリュイの横顔には、郷愁に似た、しかし、それとはまたどこか違う、見ているティセの胸を焦がしてしまうほどの切なさを、濃く滲ませていた。
 ……どうしたの……リュイ……
 子供たちとの談笑の合間、ティセは佇むリュイを目に留めるたび、溜まらなく哀しくなって目を伏せるのだった。

 夕飯の支度がととのったと声がかかった。子供たちは歓声を上げて、それぞれの家に戻っていく。ティセは「ちょっと待ってて」とフェネの肩に触れ、大木の前で立ったまま時を止めてしまったリュイへ向かう。
「リュイ…………大丈夫?」
 ゆっくりと振り向いた。わずかに首を傾げて低く、
「……何故?」
「……ううん、なんでもない……」
 あれほど濃く哀愁を滲ませていたことに、自身気づいてはいないようだった。
「…………祈りは捧げないの?」
 リュイは視線を外した。だいぶたってから「……ん」とひどく曖昧に鼻音で返す。ティセは薄暗い空に黒々と葉を広げる沙羅樹をひととき見上げてから、
「笛のこと……なにか尋ねてみたらいいじゃないか……」
 潜めた声で口にした。目を合わせないリュイをじっと見つめる。
 また、だいぶたってから、
「……そうだね……」
 リュイはティセよりも声を潜めて答えた。



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