解 放 者 た ち

【第七章】

〔1〕





 真夏の日差しが、昼下がりの市場へ照りつけている。乾ききった地面は白々とまぶしく、そこへ落ちる影の濃さと、店内の暗さを際立たせていた。
 売り子たちは皆、店内や屋台の天幕の下で日を除けつつ、待つふうもなく客を待つ。市がもっとも賑やかな午前を乗り切って、どの売り子も疲労と眠気に襲われているのか、ぼんやり微睡んでいる。市場はこの時間、眠ったように静まりかえる。店先に並ぶ玉葱やニンジンも、麻袋に詰め込まれた豆類も、店頭に吊された真っ赤な山羊肉も、空気の熱さにじっと息を潜めているかに見える。

 ティセは閑散とした市場の、野菜屑が散らばる通り筋を歩きながら、
「ああ、喉渇いたぁ!」
 大きく独りごちる。と、左手にちょうど八百屋があった。いそいそと駆け寄り、薄暗い店内で座ったまま半分寝ている、腹の突き出た店主に声をかける。
「おじさん、キュウリ一本いくらですか?」
 店主は大儀そうにまぶたを押し上げ、ティセを睨む。
「……あん? 一本だぁ?」
 野菜はどれも量り売りで、その単位は手頃な笊が満杯になるほどの量なのだ。もちろん、ティセは承知の上だ。店主は小憎たらしげに膝を打ち、
「持ってけ! 泥棒!」
「やった! どうもありがとう!」
 しめしめと、いちばん大きなキュウリをひとつ頂戴する。それを胴着の裾でごしごし拭いて、ボキリと半分に折り、
「ほら」
 一歩前を行くリュイに差し出す。リュイは振り返り、素直に受け取った。可笑しそうに口角を上げ、
「おまえの手並みには、いつもながら感心するよ」
「ふっふん、生活の知恵だ。待ってろ、いま塩を出すから」
 半分にしたキュウリを口にくわえて、自由になった両手を使い荷物から塩を取り出す。その様子を、リュイはやはり可笑しそうに見ていた。
 ふたりはキュウリをボリボリと囓り、喉を潤しながら歩く。相変わらず、リュイは美味いも不味いもないようにものを食す。けれど、キュウリを囓るリュイを横目に眺め、ティセは感慨を深くしていた。以前のリュイは、ものを食べながら立ち歩くなどという行儀の悪い真似は、決してしなかった。自分につられているのだと思うと、ティセは可笑しくも嬉しくなる。
 リュイは、本当に変わった――――――


 再会したのち、離れていた間のことを、互いに掻い摘んで語り合った。リュイは俗世を避けるように暮らす占い師の家に世話になっていたという。誰に尋ねても行方を掴めなかったのはそういうわけかと、ティセは納得した。魔女と渾名される孤絶の占い師に、多大な興味を惹かれた。
「怪しげな占い師だなあ、どんなひとだった?」
 リュイは少し考えてから、
「不吉なことばかり言うひとだった……」
 なにやら不服そうに答えた。そして、
「けれど、収穫もあった」
 笛はイブリア族の古い大木信仰と関わりがあるようだと、リュイは言う。自分はふたつのものに強力に導かれているらしい…………ふたつのもの…………だから、笛は本当に一対の笛で、どこかにもうひとつの笛があるのかもしれない。笛を語るときにする、妙にさめやかな目をして言った。
 リュイはうつむいて、にわかに声を沈ませた。
「占い師が言うには…………僕には、なにか目に見えないものの加護があるそうだ」
「加護?」
「…………僕の後ろに大樹が見えると言われた。よく分からないけれど……大樹の霊のような……そういうものかな……」
 ティセは「ああ」と納得の声を上げた。リュイは顔を上げ、驚いたようにティセを見た。
「おまえにも、僕の後ろのものが見えるのか……!?」
 呆れたふうに笑いながら、
「見えるわけないだろ。でも、大木に祈るのを初めて見たときから、おまえは樹の下が本当によく似合うなぁって、ずっと思ってたんだ。似合いすぎるくらいにさ。だから、なんとなく分かるよ」
 リュイは顔を強張らせ、絶句したように口をつぐんだ。それから、声を潜めて、
「……おまえは……本当に、目がいいんだな……」
 まるで、怖いものでも見たかのようにつぶやいた。
「目? もちろんいいよ。え、リュイ、目悪かったの?」
 暗緑の瞳を覗き込む。
「……いや、視力は良いよ……」
 ふいと、リュイは目を背けた。

 リュイの変化は、おそらくはティセにしか分からないほどの小さなものに過ぎない。冷ややかな眼差しも、瞳に潜む翳も、雪融け水のように張りつめた雰囲気も、さして変わりはしない。初めてリュイを見るひとは、温度のないその声や言葉つき、表情に、少なからぬ近寄りがたさを覚えるだろう。
 けれど、ティセには分かる。たとえば春が訪れて、神々の山の氷が少しずつ融けていくように、リュイがゆっくりとほどけていく様子が、はっきり目に見えた。厳しさがゆるやかに解かれて、徐々にぬくもっていく雪融け水の温度を、ティセは肌で感じることができた。
 離れていた間にどんな心境の変化があったのか、知る由もない。が、まるで解き放たれたかのように、リュイは変わっていた――――――


 その町のはずれの休耕地に、いまは使われていない作業小屋がある。ふたりはここに夜を過ごすことにした。小屋のなかには、壊れた鋤や錆びついた馬鍬、日除けの編み笠など、土埃を被った農具がそのままになっている。
 ティセは小屋の軒下で簡単な煮物を作りながら、空き地の隅の大きな木に身を預けるリュイの姿を眺めていた。
 再会してから初めて、その儀式を目にする。遠目に見ていても、じっと息を凝らしたくなるほど静かな光景だ。粛然としつつも、不思議とあるがままの美しさを感じずにいられない一枚の絵。今日はめずらしく夕立は訪れないようで、日没へ向かう空はまだ明るさを残している。その空の彼方から、笛の音(ね)の幻聴が聴こえてくる。するとやはり、ティセの心は、心地よく湿った森に深く抱かれているような、安楽を覚えていくのだった。

 長々と大木に身を預けたのち、空き地のなかをまっすぐに戻ってきた。目の前に立つリュイは、もう現実感を戻している。ティセはリュイを見上げて、
「久しぶりに見た。見てると、どうしても笛の音が鳴るように感じるよ。不思議だなぁ」
 リュイは隣りに腰を下ろすと、襟もとから笛を取り出した。
「そういえば、僕が意識を失っている間、これが光を放っていたと占い師が言っていた」
「ほんと!?」
「おまえが見たのと同じように、ぼんやりした緑色の光で、鼓動するみたいに明滅していたと……生きているんだと言っていた……」
 困ったように眉を寄せ、
「……ますます薄気味が悪い……」
 ティセは思わず吹き出した。
「そんなこと言うなよ、おまえを導いてくれる大切なものだろう? それに、父さんの形見でもあるんだから」
 諭されても、リュイはどこか納得がいかないふうに、わずかに口を尖らせた。それから暫し間を置いて、前を見ながら言う。
「笛が導いてくれる旅なんて――――……こんなお伽噺みたいなはなしを、おまえは信じるかな…………」
 おもむろにティセを見遣る。笛を右手に載せたまま、リュイは独りごとのような覚束ない口ぶりで、
「…………信じてくれたらいいと、僕は思うよ……」
 ティセは胸を突かれて息を呑む。目を見開いて、どことなく心許なげに揺れるリュイの瞳を見つめた。次瞬、真っ白になった胸の内に喜びがほとばしる。瞬く間もなく飽和して、気が遠くなる。
 
 ――――信じなくてもいいと、三度も告げたリュイが――――――……

 いまにも後ろへひっくり返りそうな身体をなんとか持ちこたえ、ティセは力強く返す。
「信じるよ。リュイ・スレシュ・ハーンが言うならね――――」

 少しずつ、扉が開かれていく、軋む音を立てながら、ティセに向かって開け放たれていく。
 天井越しに意志を語ったハマの宿を思い出す。宣言に立ち会った女将の顔が頭へ浮かぶ。「いまはまだ連れじゃない、でも近いうち連れになる」との豪語に大笑いした女将の顔が……。女将へ告げたい――――――自分はリュイの旅の連れだと、心からの自信と実感を持って、大声で女将へ告げたい。誰のこと言っているのか分からない、そんな氷塊の言葉を投げたリュイが、ついに歩み寄りを始めたと、女将に知らせたい――――……。

 リュイはふと思い出したように、笑みを過ぎらせた。
「そう……おまえはライデル一家に興味を持っていたな。その占い師は、ライデルは顧客のひとつだと言っていた。どうやら、僕を運んだのはライデルの馬車で、闇市でリザイヤを売ったときに見かけたライデルの男が、占い師と一緒に乗っていた」
「ななななに――――っ!?」
 つい興奮して、素っ頓狂な声を上げた。
「なんだよ! おまえばっかり、ずるい! 俺もライデルの男、ひと目でいいから見てみたいよーっ!」
 悔しさとうらやましさの籠もった目つきで、リュイを睨む。と、リュイは小さくも、声を立てて笑った。ティセはふたたび胸を突かれて、言葉を呑んだ。
 顔つきを変えて黙ったティセを見て、リュイは目で「なに?」と尋ねた。
「…………おまえ、いま、笑ったな……?」
 リュイは小首を傾けて、
「……おまえがそう言うのを、久しぶりに聞いた」
 自身忘れていたが、リュイが微笑みを見せるようになったころ、よくそう言ってはほくそ笑んでいたのを思い出す。
「…………僕は、そんなに笑わない?」
 大きく二度も、ティセはうなずく。
「笑わないよ。でも…………いま、声を出して笑った。初めてだ! 俺、いますごく驚いた!」
 なにか考えているのか、リュイはしばらく黙っていた。やがて、ぼんやりと、
「言われてみれば……自分の笑い声を……聞いた覚えがないように思う……」
「は!?」
「……おかしい?」
 と、リュイは薄く笑う。ティセは呆れ返って、
「…………おまえはやっぱり、陰気の塊だ!」
 薄く笑ったまま、リュイは西の空へ目を向けた。
「空が……」
「ん?」
「染まり始めた……」
「今日は降らなかったね」
 ……赤い、リュイは口のなかでつぶやくようにそう言って、膨張した太陽をじっと見つめた。

 ふたりの距離が縮まっていく。リュイが少しずつ内側を見せていく。ティセはその様子にいちいち驚き、喜びを募らせていく。
 けれど、リュイが隠しているだろう冷たく濡れた闇の詳細を窺い知ることは、かなわない。リュイはなにかを隠している、ティセはほぼ確信していた。しかし、それを無理に探りだそうという気にはなれなかった。
 正直に告白すれば、とても知りたかった。その体温を奪うものを、沈黙の奥に口を開ける空洞のような欠落を、微笑みのあとにさえ漂う翳を…………その正体を知りたい――――――もっと、もっと、リュイを知ってみたい。
 心の底から思いはしても、その闇に踏み込んでいくのは憚られた。それは間違いなく、リュイの意に染まない行為であるはずだ。その行為が、リュイの漂わせる翳を濃くするように、その沈黙をより深くしてしまうように思えた。
 なによりも、ようやく開かれ始めた扉が、それにより、もとよりも硬く閉ざされるのではないかという気がして、ティセは怖かったのだ。ティセにできるのは、ただ目を澄まし、その闇の存在を静かに眺め、感じ、想像することだけだった。


 スリダワルと隣国タミルカンドの国境が近づいていた。この調子であと数日も歩けば、国境の手前にある地方都市カダプールへ辿り着く。初めてイリアの国境を越えた数ヶ月前の、あの興奮を思い出す。あのときほどではないにしても、ティセはふたたび大きな高揚感に包まれている。
 当時はまだ、つまらない虚勢を張っていた。リュイの手前、爆ぜそうな好奇心を無理やり抑えつけ、平静を装い胸を張っていた。自分を抑圧し、ひと目に抑圧されてひしゃげていることも気づかずに、リュイの前を平然と歩いていた。そして、防御や反撃の余地などどこにもない完璧な敗北を喫し、足枷が外れた。
 たった数ヶ月前のことにも拘わらず、ティセにはすでに懐かしい。思い返せば、小さな悲鳴を上げたくなるほど恥ずかしかったのだと、いまは思う。突き上げるほどのこの高揚感を堂々と露わにできる喜びと開放感を、ティセはひしひしと噛みしめていた。

 先日、初めて母親に手紙を書いた。申し訳なさと愛しさで胸をいっぱいにして、その顔を頭に浮かべ筆を握った。書きたいことは山とあった。どれもこれもすべて書きたい、伝えたい――――……。白い便箋の上に、溢れる思いが鉄砲水のようにほとばしり、ついにまとまりがつかなくなった。結局、書き終えた手紙はとても簡潔なものだった。

 ――――スリダワルにいます。とても楽しく元気に旅してます。隣にいるリュイという名のすごいひとが、自分を守ってくれているので、なにも心配はいりません。どうか身体に気をつけて……――――

 手紙はいつ届くのか、本当にあの遠いナルジャへ届くのか、甚だ心許ない。この手紙が母のもとへ届きますように――――ティセは心から祈った。


 ある小さな村の食堂兼簡易宿で夕食を取る。平パンと香辛料の効いたレンズ豆の煮込みの定食、久しぶりの贅沢に焼いた鶏をひとかけら別注文。夏場の平パンは乳酪(ヨーグルト)を混ぜて焼くと粘り気が出て美味しい。ナルジャでは米食が多いので、ティセはスリダワルへ来て初めてそれを知った。
 初老の女将が若いふたりの食べっぷりを見て、非難めいた高い声を上げる。
「あんたら、そんなに食べたんじゃ商売上がったりだよ!」
 こういった安食堂では通常、定食は定額で好きなだけお代わりを頼めるからだ。ティセは女将の言葉に吹き出した。
「だって、おばさんの焼いたパン、すっごく美味いんだもん、しかたないじゃん」
 すると女将は、竈の脇にある配膳台へ痩せた腕を伸ばし、重ねてある平パンを数枚取って、ふたりの前へどさりと置いた。
「しょうがないねえ、近頃の若いのは遠慮ってもんを知らないんだから……」
 口では文句を言いつつも、女将の目や顔つきは満足そうに見える。その旺盛な食欲が実のところ痛快であるかのように、隅の食卓で繕いものをしながら、興味深げにふたりを眺めていたのだ。
「ありがとう!」
 ちらりとリュイを見遣ると、キュウリをただで貰ったときと同じく、わずかに口角を上げていた。

 食後、汚れた指先を洗い食卓へ戻ると、リュイは改まったような口調で言った。
「ティセ。提案があるんだけれど……」
「提案? なに?」
 ひと呼吸置いて、続ける。
「行き先を変更したいと思っている」
「変更!? なんで!」
 リュイは食卓の上に目を落とした。
「シュウはイリアのように治安がいいとはいえない国なんだ。南部のほうはともかく、僕の村があった北部では、稀に暴動や襲撃事件が起こる。もしも巻き込まれたらと考えると、とても気が重くなる。取り返しのつかないことになる可能性もある……」
 そんな想像をしているかのように、表情を硬くした。ティセは拳銃を手に入れる際に世話になった、あの少年の話を思い出す。
「このあいだ会った子から、おまえの国のこと少し聞いたよ。シュウは内紛を抱えてるって…………俺、ちっとも知らなかったよ……」
 無知を恥じて、ティセも目を落とす。
「イリアと違って政府がよくないから…………反政府勢力がそこらじゅうにいて事件を起こす。それに……イブリアの過激派が自治を求めて暴れている」
 ティセは顔を上げてリュイを見た。
「おまえの民族が!?」
 リュイはゆっくりと瞬きをして肯定する。
「ほんの一部のひとびとだ。関わったことがないから、僕にはよく理解できないけれど……」
「……隣の国と長いこと争ってるとも聞いた」
「……そう、二年ほど前に休戦したけれど、いつどうなるか誰にも分からないよ」
 ティセは暫し黙って考えていた。のち、声を潜めるようにして、尋ねてみる。
「おまえは……銃も扱えるのか」
 剣の腕前を念頭に、銃も、と言った。リュイは少しだけ冷ややかな目になった。わずかに間を置いてから、静かに答えた。
「扱える。南部のことはよく知らないけれど、北部のほうではある程度の歳になれば、男子は誰でも武器の扱いかたを少なからず教わるものだ。自衛のために……」
 あの少年の考えていたとおりだった。が、それにしても、リュイの手並みの鮮やかさとためらいのなさは、どう考えても並大抵ではないように思えた。けれど、ティセはいままで、いわゆる喧嘩以上の争いを目の当たりにした経験がないため、自分の抱いたその印象に自信が持てなかった。
 目をじっと見据えて、ティセは問う。
「誰でも…………おまえみたいに……?」
「……さあ……けれど、僕の村にはとても良い師がいたから、僕は少しは腕の立つほうかもしれないよ」
 それから、目に穏やかさを戻して、
「とにかく、シュウ北部はそういうところだ。おまえを連れて行くのが、ひどく不安なんだ。もしも、なにか事件に巻き込まれることがあったとしたら……僕は、おまえを守ってやれないかもしれない…………先日と同じようにね」
 なにかあれば確実に足手まといになってしまう、そう言われれば、ティセはその提案にうなずくしかない。そもそも、リュイの兄が故郷へ戻ったかどうかは推測でしかないけれど、笛の答えが遠くなった気がして、ティセは残念に思う。
 それだけではなかった。リュイの生まれ育った地を…………リュイが日々目にしていた風景を…………自分の目で見てみたいと、ティセは願っていたのだ。その日を心待ちにしていたので、大きく落胆した。
 はあぁぁっ、と長い溜め息をついてから、無念さを断つように、顔をぱっと上げる。
「分かった。それなら、改めて行き先を考えないとね。他になにか案はあるの?」
 リュイが口を開きかけた、そのとき、食堂の外から急いたような大声が聞こえた。大人にしては甲高さを残した男の声だ。
「おおーい!! 大変だ! 急病人だ! 水を持ってきてくれぇ!」
 女将が繕いものの手を止めて立ち上がる。
「病人だって!? いやだねぇ、またやっかいごとを持ち込んで!」
 ふたりの脇をすり抜け、小走りに戸口を出て行った。途端、女将の悲鳴に似た声が上がる。
「ありゃまあ! どうしたんだい、この女は!」
 ふたりは話しを中断し、顔を見合わせた。
「大変だ!」
 ティセは長椅子から立ち上がり、食卓の上の水差しと硝子の湯呑みを手に、女将のあとを追って出た。

 外は雨上がり、空はどんよりとして、そのまま夜へ沈もうとしている。薄暗い店の前にロバ車が一台停まっていた。荷台には幌が掛けられ、そのなかにたくさんの衣服が吊されている。流しの服屋のロバ車だ。吊された衣服の下に、ティセの母親より少しだけ若いと思われる女がひとり、身を抱えるようにして横たわっていた。
 荷台の脇に、腹だけがぽこんと突き出た三十がらみの痩せた男が立っている。
「帰る途中、道端にうずくまってたんだ。胸が苦しいんだと。さっきまでもう少し元気だったんだけどよ」
 女は血の気のない顔色をして、すでに息が細くなっていた。身体のあらゆる部分の力が抜けているみたいに生気を失っている。女将はおろおろと身をよじらせて、
「あらあらどうしましょ!?」
「医者を呼ばなきゃ!」
 驚いたティセはそう叫んだが、男は首を横へ振り、
「この村にはいま医者がいないんだ」
 ティセは湯呑みに水を注し、膝を折った。横たわる女の頭と同じ高さの目線になって、
「もしもし、大丈夫ですか? 水を飲みますか?」
 そっと声をかけたティセの目に、荷台の奥、吊された衣服に隠れるようにして膝を抱える、ひとりの少女が映った。
「あ……」
 少女と目が合った。薄暗い幌のなかで、涙に濡れた大きな瞳が、激しく怯え揺れていた。
 女が消え入りそうな声で呻いた。ティセは女に目を戻す。
「もしもし!」
 青くなった唇を震わせて、
「…………娘を…………フェネを…………お願いします……」
 女はつぶやくように告げ、そして――――――……唇の震えを永遠に止めて、そのまま息を引き取った。
「もしもし! もしもし!!」
 呼びかけても無駄だった。かすかに開かれたまぶたの下から覗く黒い瞳には、もう命の光は宿っていない。
「――――――……!!」

 ――――――――目の前でひとが亡くなった。ティセはよろめくように立ち上がり、半歩後退って、左手の湯呑みを取り落とす。硝子の割れる音が、ひとの死を表す滅びの合図のように、いやにはっきりと鼓膜を刺した。女将も男も、声を失ったふうに立ちつくしている。
 辺りはしんと静まりかえった。放心したまま振り返ると、いつのまにか外へ出ていたリュイと目が合った。リュイは落ち着いていたが、それでも切なげに目を細め、ティセとロバ車を眺めていた。



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