解 放 者 た ち

【第六章】

〔1〕





 十人ひとがいたら満杯に感じる狭い部屋のなか、粗末な板張りの床の上で、ティセはぼんやりと目が覚めた。薄暗い。天井にランプがひとつ、弱々しげに灯っているのが目に入る。
 記憶が曖昧だった。なにがどうしたんだっけ……模糊とした頭のなかでつぶやくと、その頭の左右が鈍く痛むことにようやく気がついた。途端、すべてを思い出す。
 ティセは跳ね起きて、薄闇に目を凝らす。同い歳か少し歳下とみられる痩せた少年が五人、壁際に寄りかかり、こちらをじっと見つめている。そのなかにリュイの姿を探すが、いない。慌てて見回せば、壁があるのは少年たちがいるそこだけで、三方は格子、まるで檻だ。檻は黒い幕ですっぽりと覆われていた。自分の荷物を傍らに見ただけで、リュイはどこにもいなかった。腹の底から怖気が湧き上がり、戦慄する。
 檻の入り口には、大きな錠前が掛かっていた。ティセは入り口に這い寄り、幕の向こうへ大声を上げる。
「おいっ! リュイはどこだっ! リュイをどうしたっ!? おいっ! 答えろっ! 誰か答えろっ!!」
 息を荒くして怒鳴り続けた。やがて、背後から冷ややかな声がかかる。
「無駄だよ、誰も来やしないって」
「きっと夕飯でも食ってるよ、誰もいないよ」
 ティセは両手で格子にしがみつきながら、がっくりとへたり込んだ。思いのたけ喚きたかったが、あまりの悲嘆に声が出ない。
 …………リュイ…………!
 長いこと、そうしていた。うつむき固く目を閉じて、リュイの名を呼び続けていた。

 だいぶたってから、少年のひとりがまた声をかけてきた。
「おまえ、どこのひと?」
 ようやく格子から手を離し、ゆっくりと壁側を見向く。
「……イリア」
 右端に座る、いちばん小柄な少年だ。少年は心得ていたとでもいうふうに、
「どうりで……。捕まったのか?」
 ティセはうなずいた。
「リュイって誰だよ?」
「……旅の仲間」
 少年は目を見開いて、呆れたような声を上げる。
「旅!? ……イリア人はお気楽だなぁ!」
 返す言葉が見つからなかった。黙り込むティセを気にもせず、少年は続ける。
「で、そいつがどうしたんだよ」
 思わず涙が込み上げたが、ぐっと飲み込んで、
「……撃たれた」
 すると、少年たちは一様に目を瞠り、
「撃たれたぁっ!?」
 互いの顔を見合わせる。彼らはそんなひどいことをするのか、とでもいうように。ティセには話をする気力などなかった。憔悴しきったその顔を見て胸中を察したのか、少年たちはそれきり声をかけてはこなかった。


 格子に右肩を寄せ、孤絶するように少年たちに背を向けて、ティセは呆然と幕の一点を見つめ続けた。リュイの安否、それ以外のことは考えられない。これから自分はどうなるのかさえも、頭には上らなかった。
 どこに被弾したのか、どのくらい血が流れたのか、流れた血の量は、その息の根を止めてしまわなかっただろうか…………考えるほど、身体のなかがざわめいた。内臓が不安と怯えに震え続けた。泥だらけの着衣はいまだ湿っていて冷たいけれど、ティセの肌を粟立たせているのは寒気ではなく、憂懼と動揺だ。
 そして、自己嫌悪の暴風に心を晒していた。

 ――――俺がいなければ…………!

 もしも自分がいなければ、エトラの家を出た昨晩のうちに、リュイは逃げ切れたのではないか。あそこまで追い詰められるなど、ありえなかったのではないか。それならば、撃たれることはなかっただろう。滑落して怪我を負うこともなかったはずだ。
 道端の廃屋に、なんの疑念も抱かず、軽率に近づいてしまったのも自分だ。リュイだけが彼らの相手をし、自分はただ走っていたに過ぎない。リュイがあの老夫に背を向けてしまったのも、自分が捕まったからだ。
 ――――――ああ…………――――!
 ティセは心のなかで絶叫した。

 ……俺がいなければ……俺さえいなければ……!!

 幕の一点を見つめたまま、拳を硬く握りしめる。かつて口にした言葉が脳裏を過ぎる。ナルジャを出るとき、「絶対に足手まといにはならない」とうそぶいた。「おまえには頼らない」と声を震わせたのは、今朝のことだ。
 大馬鹿だ、浅はかだ……愚か者だ……
 憎々しさに貫かれ、ティセは頭をめちゃくちゃに掻きむしる思いで自身を罵倒した。口汚く自身を罵り尽くし、痛感する。

 …………俺は、足手まといだ…………

 リュイはその発言どおり、ためらいなく剣を抜き、ひとを斬った。そして、あれほどはっきり「おまえを守らない」と言い切ったにも拘わらず、自分を助け、守ろうとしてくれた。
 湯呑みを投げつけたあとの顔が目に浮かぶ。背けた瞳には、疲労と憂いに似たものが浮かんでいた。顔や胸元へかかった白湯はどれほど熱かっただろう、濡れた衣服はどれほど冷たかっただろう。ティセは心苦しさに張り裂けそうになる。幕の一点を見つめる瞳から涙がひと筋流れ、泥まみれの頬を伝っていった。


 ふいに入り口付近の黒幕が捲られた。外はすっかり暮れていてよく見えない。真っ黒な木立が見えただけで、ここがどこなのか少しも分からなかった。そこに、ひとりの男が顔を現す。頬のこけた長い顔は、明瞭ではないものの、リュイと対峙していた三人のうちのひとりだとティセは気がついた。
「飯だ」
 男は片手の盆に平パンの入った篭と漬け物の器を載せている。ティセは入り口へ駆け寄り、格子にしがみつき、
「おいっ! リュイをどうした!? 答えろっ!」
「近寄るな、戸が開けられんだろ」
「答えろっ!」
「うるせえガキだな、おまえの仲間のことか? 奥へ退いたら教えてやる」
 男を睨めつけながら、ティセは渋々と入り口付近から退いた。男は錠前を外し、盆を手早く床へ置き、すぐに戸を閉める。
「そのまま放ってきたから、どうしたか知らねえよ」
「放ってきたぁっ!?」
 ティセはふたたび入り口の格子にしがみつく。男は眉をしかめてティセを見る。
「とんでもないやつだったな、あいつはいったい何者だ」
「リュイが死んだら……リュイが死んだら……おまえら……」
 射殺すように男を見つめ、声をわななかせた。
「ああ、あの爺さん名人だからな、急所には当てないよ。死ぬこたねえだろ。手当が早かったらのはなしだが……それよりおまえ、自分の心配でもしたらどうだ?」
 男はニタリと笑って、捲った幕をふたたび閉じた。閉ざされた幕の前で、ティセは格子を掴み続け、長いこと放心していた。







                *         *







 大樹の夢を見ている。
 生家の脇にある沙羅の大樹は、粗末な家屋を守るように、包むように立つ。リュイは漫然と沙羅樹を見上げる。心にはなにもない。光沢のある濃緑の葉が風に揺れ、ささめいている。重なり合う葉の隙間から覗く空は、いつでも曇天だ。実際、故郷の空は青々と晴れ渡る日が多いのに、夢のなか、大樹とともに仰ぐ空はつねに重々しく曇っている。リュイは青空の夢を見ない。

 視線を戻せば、大樹の横には幼いころの妹が佇んでいる。同じ肌の色、瞳の色をした妹が、恥ずかしそうに口をつぐみ、じっとこちらを見つめている。兄妹は互いを眺め合うだけで、話をしたことがあまりない。それでも、イブリアの誓いの儀式を、リュイは妹に教わったのだ。
 妹は小さな声でぽつりと言う。
「また会える?」
 リュイはゆっくりとうなずく。
「約束する」
 妹の暗緑の瞳が喜びに輝く。
「じゃあ、大きな木に約束ね」
 兄妹は大樹の根元に膝をつく。
 大樹に誓おう、約束を守ると。願いを叶えると、大樹に告げよう。けれど、最後に妹に会った晩の誓いは、大樹の下では立てられなかった。だから――――もう、妹に会えないかもしれない。
 目の前で、幼いころの妹が光の粉になって消えた。合わせていた手のひらに、鱗粉のような光の粉が残る。あえかなきらめきは、妹との少ない思い出そのままに、切ない。リュイは目を伏せた。
「……セレイ……」
 立ち上がり、おもむろに振り返り、生家に目を向ける。もう誰もいない小さな家に。ひどく懐かしく、それでいて、よそよそしさを覚えさせる、その佇まい。帰ることのない家を、リュイは沙羅の大樹と同様に、漫然と眺め続ける。
 ふと、強めの風が吹き、頭上で沙羅の葉がざわめいた。葉擦れに混じり、笛の音(ね)が、リュイの耳にかすかに聴こえる――――――


 長い眠りから目が覚めた。
 リュイは寝台の上でゆっくりとまぶたを開けた。漆喰の白い天井が目に映る。辺りを見回そうと首を傾けた途端、左脇腹に激痛が走った。息を呑む。右肩が軋む。
 息を止めたまま、声を立てずに半身を静かに起こす。自分のものではない白い衣服を着ていた。全身に付着していたはずの泥は、きれいに拭われている。前開きの寛衣の、その合わせ目の隙間から、身体に巻かれた包帯が目に入る。
 室内を見遣る。広めの部屋には、足の長い机や椅子、曲線的な装飾を施された優美な家具が並んでいる。伝統的な床の上の生活ではない、異国風の暮らしかたをする者の部屋だと分かる。漆喰の壁には様々な文様の織物が飾られて、日常とは異なる雰囲気を室内に醸し出していた。

 開け放たれた扉から、女がひとり現れる。馬車から降りてきた若い女だ。
「目が覚めた?」
 四・五歳ほど歳上とみられる女は、めずらしく洋装を身につけている。裾の長い黒い裳(スカート)をさらりとなびかせて歩いてくる。衣服に染みついた甘くも清涼な香りが、リュイの鼻腔をくすぐった。腰まで届くまっすぐな黒髪が、肩の上や胸元に流れていた。日常、女たちは仕事に備え、長く伸ばした髪をまとめるか束ねるかするものだ。ほどかれた長い髪は、家事の放棄の証しとなる。
 見慣れない洋装、不吉な印象を与える黒衣、それが際立たせる死者さながらの白い肌、束ねられずに流れる黒髪。特異な部屋の様子とあいまって、女は日常を超越したような雰囲気を多分に纏まっていた。誰も寄せつけない――――そんな意志さえ感じさせる女だ。リュイが無意識に持っている近寄りがたさとは違う、もっと能動的な拒否を全身に漂わせている。

 リュイは白衣の合わせ目から覗く包帯を目で示し、
「これは、あなたが?」
 夜の静けさを思わせるような低い声音で、女は答える。
「いいえ。ある男が紹介してくれた医者…………闇の名医の手当よ」
「……闇?」
 女は切れ長の目を若干細め、
「ライデルと関わりが?」
 それで思い出す。女に傘を差し掛けていた壮年の男は、以前闇市で見かけた男だった。リュイに目を掛けたライデル一家の幹部のひとりの側近だ。
「なにも話さなかったけれど、彼はあなたをまじまじと見て、近くに名医がいると教えてくれたの」
「以前、闇市で少し世話になったことが……」
 言葉少なに答えると、女はさも訝しげにリュイを見た。
「…………それだけ? あなたはもっと後ろ暗いはずだわ」
 心臓がどきりと鼓を打った。リュイは顔を強張らせた。それを見て、女はうっすらと笑みを過ぎらせる。
「悪いけれど、荷物をすべて改めさせてもらったわ」
 リュイは冷ややかな目を女に向ける。
「ここには私ひとりだから、いろいろと用心しているの。興味深いものがいくつか出てきたわ」
 女に向けた目が、いっそう冷えていく。
「あなたは若くして大変な資産家であるようね、不自然なくらいにね。それに……」
 女は黒い裳の衣嚢から、リュイの笛を取り出した。
「美しくも、ずいぶんと怖ろしいものを持っている」
 言いながら、女はどこか不吉さを増していった。魔物めいたようにすら見えた。禍々しく微笑んで、女は続ける。
「それから、身分証がふたつ出てきたわ」
 暗緑の瞳が、凍りつく。
「ラジェス・ディル・ノイン。もうひとつは、リュイ・スレシュ・ハーン…………本当のあなたはどちらなの? それとも、どちらも偽者かしら?」
 リュイは目を背けて押し黙った。瞳だけではなく、顔も、握った両の拳も凍りついていた。長いこと黙していた。やがて、重たげに口を開き、
「…………リュイ・スレシュだ」
 つぶやくように答えた。
「そう、それならリュイと呼ぶわ」
 自分の足先を見つめるような目線をしたまま黙り続けるリュイを眺めて、女は呆れたように笑み、話題を変えた。
「あなたは旅人のようね」
「……はい」
「歩くにはつらいでしょう。しばらくここにいて構わないわ」
 リュイはすっかり警戒していた。疑いの籠もった目で女を見遣り、
「…………何故、僕にそこまで……?」
 女はにわかに顔つきを引き締めた。すると、切れた目尻に冷涼な光が宿り、月光に染まる薄絹を纏ったように現実感を薄くした。いっそう低い声になり、
「見えるからよ。あなたを加護するものが。私と同じように、特別に加護されているのが、はっきりとね。だから、あなたを助けたの」
 ――――女はザハラと名のった。目には見えないはずのものから加護を受ける、占い師だという。ライデル一家を顧客のひとつに持つ、闇と明るみの狭間に住まう若き占い師だ。


 申し出のとおり、リュイはしばらく世話になることにした。警戒は解かれない、けれど、歩いていくには確かにつらかった。腰骨の上を掠めた銃弾は、内臓こそ傷つけはしなかったが、肉を大きくえぐっていった。血が多く流れて体力が落ちている。そのうえ、疲れ果てていた。どこか静かな場所で隠れるようになっていたい、そんなふうに感じていた。
 寝台に横たわり、銃創と右肩の痛みを噛みしめる。幼いころから、痛い思いばかりしている。痛みに耐えるために生まれてきたように、苦しみを堪えるために生きているように、リュイは思う。そして、後ろ暗さに怯えて、道に迷い続けるのだろうか、この先もずっと……。
 逃げるように目を閉じると、まぶたの裏にティセの顔が浮かんだ。迷うことなど知らないような強い瞳をしたティセが、まっすぐに自分を見つめている。
 …………ティセは、どうしただろう…………
 血の足りないぼんやりする頭のなかで、つぶやいた。


 ザハラはマドラプール近郊の町外れにひっそりと建つ、二階建ての洋館に暮らしている。不能の下男と声を失った下女を通わせて、ひとりきりで暮らす。家の周囲は木立に囲まれ、ひとの声が一切届かずとても静かだ。まれに響いてくる猟銃の音のほかには、木々のささめきと、鳥のさえずり、月の光の降り注ぐ音しか聞こえない。
 静寂に包まれて、ザハラは一日中、口を閉ざしてものごとを占う。リュイの寝ている部屋には、書棚の本を取るために日に幾度か訪れた。冷めた目つきで具合を尋ねる以外には、あまり話しかけてこない。ザハラを見かけるたびに、その瞳はどことなく誰かに似ている気がした。
 二・三日を過ごしたのち、ザハラは自分を詮索する気はあまりないようだと、ようやく警戒を解いた。


 寝台に半身を起こして読書をしていると、ザハラが部屋へやってきた。リュイは本を伏せて、頼みがあると声をかけた。
「僕の短剣を、手元に返してはもらえない?」
 ザハラは不審そうに、
「……短剣?」
 黒い裳の衣嚢からリュイの笛を取り出した。
「手元にしていたいのは、これではなくて?」
 ひと呼吸置いて、リュイは答える。
「……剣を」
「何故?」
 目つきを険しくさせて、ザハラはあからさまに警戒の色を示す。リュイは小さく息をつき、
「僕は怪我をしているし、服の下に拳銃を隠しているひとを相手にする気はないよ」
 ザハラは感心したように目を見開いた。
「……よく気づいたわね」
 裳の内側に拳銃を隠し持っていることを、リュイはひと目で見抜いていた。
 ザハラはつねに武装している。怪我をしている自分がそれほど怖いだろうかと初めは思ったが、そうではなかった。昨日、下男下女とも不在のときに来客があった。ザハラは戸を開けず、リュイのいる部屋の窓辺から応対した、門前にライフルの銃口を向けながら。自分が怖いのではなく、人間不信なのだと分かった。
「短剣がないと眠れないんだ」
 旅に出てから、短剣を抱いていなければ、なかなか眠りにつけなくなった。しかも、その眠りはひどく浅い。少しでも異変があるとすぐに目が覚めてしまう。隣でティセが寝返りを打つたびに、リュイは必ず目が覚めていた。
「……分かったわ。眠れなければ、治るものも治らないわね」
 ザハラはあきらめたように溜め息をつき、別の部屋に保管していたリュイの短剣を手元に返した。寝台の脇の椅子に腰をかけ、枕元に笛を置く。黒い衣服から、春の夜風に似たほの甘い香りが漂い、寝台を包んだ。
「あなたが意識を取り戻すまで、ほのかな光を放っていたわ」
「光を……?」
「そう、緑色にぼんやりとね」
 ティセと同じことを言った。
「鼓動するみたいに明滅していた。生きているのね」
 笛を見つめるザハラは、先日のように目尻に光を宿し、やにわ魔物めいていく。
「……それを怖ろしいものだと言ったのは、何故?」
「あなたを加護する目に見えないものと同じ気を持っているから」
「……よく分からない。僕になにかの加護があるとは思えない」
 ザハラは薄く笑い、
「気づかないの? ずいぶん鈍いのね」
 加護……胸のなかでくり返す。なにかに護られているのであれば、こんなにつらい思いばかりするはずがない、リュイにはそう思えた。
「いつかきっと分かる日がくる、そのとき、その怖ろしさに震えるわよ」
「……不吉なことを言う。それなら、そんな日は来なくていい……」
 溜め息混じりに返すと、ザハラは笑みに憐れみを含ませて、
「逃れられないわ」
 笛をそのままに、ザハラは部屋を出て行った。衣擦れの音が遠ざかるのを、リュイは不穏な気持ちで聞いていた。
 逃れられない――――その低い声は冷たい雫となり、胸の奥へぽつりと落ちて、さざ波を立てた。

 笛を手に取り、改めて眺め見る。これが光るものだろうかと、リュイはどうしても思ってしまう。けれど、ティセが言うのだから本当なのだろう。嘘を忌み嫌うティセが言うのだから…………ティセの顔が浮かぶ。
 ティセはどうしただろう。彼らに連れて行かれたようだった。その後、逃げ出しただろうか、ティセはただ大人しく捕まっているような少年ではないはずだ。それとも、まだ逃げ出せずにいるだろうか……。
 涙が出るほど心配した――――そう言って、目の前でぼろぼろと泣き続けていたティセの姿を、ありありと思い出す。ティセはいまも泣いているのだろうか、倒れた自分を案じて、涙しているのだろうか…………。リュイは不思議な気持ちになった。あのときにも感じた言いようのない思いを、ふたたび胸に強くよみがえらせる。

 …………ティセ…………

 そして、「守らない」とあれほどはっきり断言しておきながら、守ろうとした不甲斐ない自分を思う。守りきれなかった不甲斐のなさを思う。
 頭のなか、ティセがその強い瞳を赤く腫らして、いつまでも泣いていた。



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