解 放 者 た ち

【第五章】

〔1〕





 まずは軽く準備体操をして、身体を整える。それから、ゆっくりと深呼吸。細胞のすみずみまで行き渡るよう、暖かな空気をいっぱいに吸い込み、身体のなかに溜まった塵を払う気持ちで息を吐く。人差し指で地面に真横の線を引き、出発点を定めて右足を置く。左足は一歩後ろだ。そのまましゃがみ、腰だけ上げて前傾姿勢。前方を見る、見つめる。まっすぐに、ただ彼方の一点を射るように。
 時が満ちたら、心が満ちたら、発走――――――ティセは一矢となり風を切る。

 昼休憩の際、ティセは久しぶりに全力で走った。少しずつ緑が多くなっていく赤茶色の田舎道、勝手に決めた終着点に、奇声を上げながら駆け込んだ。なかなか良い走りだったと自己満足をして、満面に笑みを浮かべつつリュイのもとへ戻る。土埃をまともに被ったリュイが、胡座を組んだまま読みさしの本や衣服をはたいていた。
 戻ってきたティセを見遣り、リュイは感心したように、
「ずいぶん速いな」
「まあな。村でいちばん足が速かったんだ。いまは分かんないけど……」
「それはすごい。けれど、少しは風向きを考えてくれないか。本が泥だらけだ」
「あっは。ごめんごめん」
 恬(てん)として謝るティセに、リュイは短く溜め息をついた。暫し間を置いて、つぶやくように言う。
「おまえといると……」
「俺といると?」
「僕の服が汚れる」
 身代わりとなって蛇に噛まれた左袖の血の跡や、脚にすがりつき血と泥でその白衣をぐちゃぐちゃにしたことを、ティセは思い出す。
「あははははっ。いつでも洗ってやるから心配すんな!」

 洒落っ気はまるでないが、リュイは身だしなみをいつでも整えている。それは意識しているふうではまったくなく、几帳面さによるものでもないようで、ほとんど習性として身についているかに思われた。着衣の乱れと汚れのなさは、姿勢の正しさとあいまって、リュイをいっそうくつろぎという言葉から遠ざけていた。
 それでも、四角四面というほどには、ひとに堅苦しさを与えない。無造作に束ねられた長い黒髪のやわらかな印象と、白衣では隠せないリュイの持つ野性味のせいだろう。白い衣服は、なにをするか分からない野性の危うげな匂いを、逆に引き立ててしまっているようにも見えた。
 服が汚れると言ったけれど、意識としては服より本のほうが大切だろうと、ティセは気づいている。読了した本との交換や売買で、新たな本を手に入れることも多いのだから。
 リュイは本当に読書家だ。読書など、初めの数行で眠くなってしまうティセには理解しがたい。なんとはなしに標題を確かめてみると、洋の東西を問わず歴史に関するものが多かった。そのほか、読書範囲は小説や見聞録、論考、哲学書などさまざまな分野に及んでいる。先日、ちらりと紙面を覗いてみたら、富裕層の有閑婦人が好むような、ティセにとっては悪趣味としか思えない不倫小説を読んでいて、仰天してしまった。
「お、おまえ……これ、おもしろいのか……?」
 思わず尋ねると、
「なんでもいいんだ」
 つまらなそうに答えた。どうやら、リュイは純粋に読書を楽しんでいるわけではないようだ。それでいて、いつでも本を読んでいる。そうでなければ、口を閉ざし、どこか遠くを見つめて静止している。


 ラグラダを出て以来、小さな集落が点々と続いていた。この辺りは寂れた地域なのかもしれないとティセは思った。どこの集落も少し貧しそうに見えた。民家は古びて、外壁の煉瓦がひび割れ崩れかけていても、補修せずに放置している家が少なくない。ひとびとの衣服もなんとなく色褪せていた。けれども、皆、明るい顔をして、年若いふたりの旅人を親切に迎えてくれる。悲愴さはいささかも感じられなかった。
 北西に見えていた山々は、いまや真北に連なっている。神々の棲まうイリアの山脈は、ついに見えなくなった。心細いという気持ちを、ティセはしみじみと感じていた。毎日当たりまえに見ていた氷砂糖に似た山々の頂が、自分のなかでこれほどまでに大きな存在であったのを初めて知った。
 ここはなにひとつ知らない世界、甚だしい興味を抱きながらも、新しい景色は余所者のティセの目に、はっきりと他人行儀に馴染みなく映る。自分が異物であるのを実感する。
 未知の大地へ立ち大空を仰ぐと、ときおりティセは、だだ広い世界に独りぽつねんと取り残されているような感覚に襲われる。背筋が涼しくなって、胸のなかを風が吹き抜けていくようだった。
 そんなとき、ティセは素直に少しだけ怖いと思う。踏みしめた足元が覚束なくなる。心許なさを胸にため込んで、空へ向けた目をゆっくりともとに戻す。そこには――――――リュイがいる。まっすぐに立ち、沈着に前方を見つめるリュイがいる。すると、心許なさがすうっと消え去って、ティセはかすかに目を細めてリュイを見る。


 当面の目的地マドラプールはまだだいぶ先だ。ティアマ滞在時から強くなり始めた日差しは、もはや完全に夏のものになっていた。近頃ふたりは女たちのように、頭に日除けの薄布を被って歩いている。昼休憩が長くなり、そのぶん朝と夕刻に歩を進めた。それもいまだけのこと。もう間近に雨季が迫っていた。
 こうして歩きながら、ティセは努めてリュイへ話しかけた。いろいろなことを尋ねた。いままでの旅路についてはもちろんのこと、子供のころや家族のこと、その思い出話……。
 依然として、リュイは尋ねなければなにも語らない。リュイの兄も自分については語らないひとだったと、コイララは言っていた。兄弟はそんなところも似るのだろうか、独り子のティセにはよく分からない。
 思い出の少ない異母兄のはなしには冷静な目をしていたリュイは、ティセと同い歳だという同母妹について尋ねたとき、驚くほど感傷的な瞳になった。自分ととても似ていると断言した。旅へ出る直前に会ったのが最後だと、まるでもう二度と会えないような、寂しげな口ぶりで語ったのがひどく印象深かった。

 さまざま尋ねながら、ティセは自分のこともおおいに語った。相変わらず、リュイはほとんどなにも尋ねてこない。自分に対する興味のなさを寂しく思っていたが、日々話しかけているうちに、リュイはそれなりの興味をもって耳を傾けてくれているのだと気がついた。どんな些末なはなしをしても、きちんと顔を向けてくれる。そして、いちど話したことは必ず覚えているようだ。
 孤児だという嘘が露見して以来、ティセはなにも憚りなく自由に話せるようになった。それがひどく嬉しく、なにより楽だった。ひとつの嘘がこんなにも自分を拘束するものかと、ティセは身に染みて思った。嘘の重さを知った。
 嘘はまだある。最大の嘘だ。
 リュイはいまでもティセを少年だと思っていて、一片の疑いすら持ってはいないようだ。そもそも、リュイが一方的に誤解したのであり、ティセはいまだひとことも自分を男だとは言っていない。厳密には嘘を吐いたわけではない。
 けれど、言わずに隠しておいたほうがいい、隠しておくべきだ、ティセは切にそう思う。万一知られたら、リュイは間違いなくひどく困惑するだろう。もしかすると、村に戻れと、今度こそ強く言われるのではないだろうか。ティセはそれを怖れていた。
 しかし、この隠しごとが破られることはないと、ティセは信じて疑わない。
 同級生の少女たちの多くはすでに初潮を迎え、日ごと女性らしい身体つきになっていく。が、ティセはいまだ初潮を迎えていなかった。その身体は細いだけで、まるみに欠け直線的だ。ささやかすぎる胸のふくらみは、上衣に胴着を重ねる男の伝統衣装を纏ってしまえば、もうまるで分からない。いずれは変わっていくとしても、まだ当分の間は隠し通せる自信があった。裸にでもされないかぎり、この隠しごとは露見しないだろう。自然に振る舞えば少年に見えるのだから、隠しごとを守るために意識することは多くなかった。


 ある集落のはずれ、小川のほとりでその日を終えた。近くに立派な椎の木がそびえていた。夕食を取ったあと、リュイは惹かれるようにその大木のもとへ音もなく歩いて行った。そして、例の儀式をする。薄紫に染まる空の下、闇の色を帯び始めた大木とひと続きになり、時を止める。ティセは小川の縁で、ふたり分の小鍋や湯呑みを洗う手を止めて、影絵のようになったリュイと大木をいつまでも眺めていた。耳の奥で笛が鳴る。宇宙の色を滲ませた空から降りてきて、耳の奥へしっとりと忍び込んでくるみたいに聴こえた。影絵と幻聴が、一日歩いて疲れたティセを平らかにしていった。

 すっかり暮れたあと、ふたりはまだ寝ずに焚き火をはさんでいた。
「おまえはきっと笑うだろうけど、本当のことだから言う」
 ティセはわざと勿体つけた口ぶりで話しかけた。闇を舞う蛍を眺めていたリュイは、おもむろに顔を向け、「なに?」と目だけで応える。ティセはにやりとして、
「俺、村ではガキ大将だったんだ」
 予想通り、リュイは一瞬間を置いてから、くすっと微笑った。ずいぶん可愛い大将だとでも思ったのだろう。
「リュイは初等部ではどんな子供だったの?」
「……どんなと言われても……。少なくとも、ガキ大将ではなかった」
「成績は良かった?」
「良いほうだった」
「素行もよかっただろ」
「……たぶん」
「女の子にモテたか?」
 こうして矢継ぎ早に問いを投げていかなければ、リュイとの無駄話は進まない。できるだけ具体的な質問を調子よく投げかけて、ようやく興味深い話が聞けるのだった。
「……男子校だったから、そういうことはないよ」
「へえ! めずらしいな」
 首都イリスなどにある上流階級の子息らが通う私立の学校ならばともかく、村の公立校で別学というのを、ティセは聞いたことがなかった。が、シュウではめずらしくないと、リュイは言う。
「シュウでは女子の就学率がとても低い、とくに北部はね。共学であっても、実際生徒は男子だけという学校がいくらでもある。そうなると、ますます娘を通わせづらいだろう。義務教育ではないから、通わせたくないと保護者が思えばそれまでだ」
 こんなふうにして、イリスとはまるで様子の違う、リュイの故郷についての興味深い話を聞くのだった。
 会話を終わらせないよう、ティセはさらに問いかける。
「初等部でのいちばんの思い出ってなに?」
 質問がやや漠然としていたためか、リュイは困ったように目を細めて黙ってしまった。黙り込めば、ティセは自分の話をする。リュイが応えやすくなるよう仕向けるのだ。
「俺はね、真夜中に同級生と落ち合って、森を探検しに行ったときかな」
 その一部始終を語り終えると、リュイは記憶を手繰るようにゆっくりと、初等部での思い出を話し始めた。
 ――――――級友のひとりがある晩、夢を見た。どこかの森の泉の縁に立っていた。その水面を覗くと、澄み切った水底に大金が沈んでいるのが見えた。見つめていると、底から「おいで」と囁く声がする。意を決して泉へ飛び込めば、はっと目が覚める。その夢を夜毎くり返し見る。
 初めのうちは、級友たちは皆、笑って聞いていた。しかしそのうち、泉の場所が具体的に分かるような内容に、夢は変わってきた。ある日、別の級友が叫んだ。「その泉の場所、俺知ってる!」。色めき立った。決して近いとはいえないその泉のある森へ、数日かけて行ってみた。すると、夢とまったく同じ泉が、清らかな水を湛えて横たわっていた。皆、息を呑んだ。
「大金があったのかっ!?」
「夢を見ていた本人がまず初めに水面を覗いてみた。泉の底には……」
「なになにっ!?」
「資産家で有名な嫌われ者の強欲爺さんが、殺されて沈められていた」
 物語さながらの結末に、ティセは唖然とし、
「ほんとかよっっ!!」
 声を強くした。リュイは涼しげな声で、
「見つけて欲しかったんだろう」
 ひとしきり語ったリュイは、静かに溜め息をつき、斜め下に目を遣った。めずらしく長く喋ったせいか、伏せた目元には少し疲れが差していた。それから、すっかり冷めた白湯を口にした。

 夏とはいえ、日が暮れれば風はそれなりに冷たい。ふたりの間をひんやりとした風が吹き抜ける。焚き火が小さく爆ぜて、音とともに火の粉が舞った。蛍が生まれたみたいに見えた。
「……ねえ、リュイ。こんなこと聞くのなんなんだけどさ……」
 にわかに遠慮がちになったティセを、リュイは訝しげに見る。
「大金で思い出したんだ。ずっと不思議に思ってたんだけど…………おまえ、二年も旅を続けられるお金が、どうしてあるの?」
 ティセはずっと怪訝に思っていた。基本的に野宿で、乗合馬車すら乗らない旅ではある。が、どんなに節約したとしても、二年の旅を続けるには相応の資金が必要であるはずだ。廃村になるほど寂れた村の小作農家だったというリュイの両親に、それほどの遺産があったとは考えにくい。麦畑を手伝いながら初等部に通った少年が、そんな大金を貯められるはずがない。どこかから盗んだとは、まさか思わないけれど、大きな声では言えないようなことがあるのではないかと、ティセは考えていたのだ。
 リュイは普段の眼差しへ戻った。
「おまえは自宅から持ち出してきたんだろう」
 逆に痛いところを突かれて、ティセは目を伏せて口籠もる。無言の肯定、声なき返答をリュイは受け取っただろう。それについてはとくに意見せず、素直に理由を語り始めた。
「ティセ。リザイヤを知っている?」
「リザイヤ!? リザイヤ……って、蒼い豺虎(リザイヤ)のこと?」
「そう」
「聞いたことはあるよ。それが?」
「以前、仕留めたことがある」
「……――――はあああああぁぁぁっっ!?」
 夜更けにそぐわない素っ頓狂な声が、耳にキンと響いたらしい、リュイは一瞬顔をしかめた。ティセはあんぐりと口を開けたまま、その顔を凝視する。目元にも口元にも、冗談の欠片は微塵も浮かんでいない。もとより、リュイは決して冗談を言わない。担ごうとしているのではないのは明白だった。
 蒼い豺虎と称されるリザイヤは、実際には白銀に近い毛を持つ大型の肉食動物だ。月明かりを受けると光沢のある獣毛がほの蒼く輝くことから、そう呼ばれている。昔はよくひとが襲われた、襲われたらまず助からない。その美しい毛皮にはたいそうな値がつくため、近年乱獲が進み、個体数をすっかり減らしてしまった。すでに絶滅したとみる学者もいるほどだ。
 なかば伝説化しているリザイヤに出くわしたことも信じがたいが、狩猟を生業としていない者がまぐれでも仕留めるなど、本来ありえないはなしだった。ティセは二の句がつけず、目も口も丸く開けたまま、暫し呆然とリュイの顔を眺めてしまう。冗談でないのは重々承知のつもりでも、つい口に出る。
「……ほ、ほんと……?」
 リュイは淡々と続ける。
「初めは、日雇いや短期の仕事を見つけながら旅をするつもりだった。けれど、シュウ南部の山岳地帯を歩いていたとき、リザイヤに出くわしたんだ。縄張りを侵してしまったのか、腹が空いていたのか分からないけれど、襲われてしまった」
「……よく、無事だったな……」
「無事ではないよ。僕はそのとき大怪我をした。いまでも背中に爪跡が残っている。あのときは……もう終わりだと思った」
 それは普通致命傷だろうと思ったが、話の腰は折らなかった。
「仕留めたリザイヤを木の枝で隠して、いちばん近い村へ降りて手当を受けた。医者には熊に襲われたと話した。傷を見て、首を傾げていたけれどね。近くの町で闇市が開かれているという話をちょうど聞いていたので、急いでそこへ行った。シュウでは、リザイヤには禁猟令が出ているから、普通に売買はできないんだ」
「や……闇市……っ!」
「初めは誰も僕の話を信じてくれなくて、相手にしてもらえなかった。子供の嘘だと莫迦にされていたのかもしれない。しかたがないので背中の傷を見せたら、ようやく信じてもらえた。そのときに…………ティセ、ライデル一家を知っている?」
「知ってるよ! 知ってる!! 国を股にかける非合法組織(やくざ)だろっ!」
「そう、そのライデル一家の幹部がいたんだ。何故か分からないけれど、ひどく気に入られて、闇商人との交渉を買って出てくれた。誰もみなライデルには逆らえないから、おかげでものすごく高値で売れた。そのあと、札束を金や宝石に換えるところまで付き合ってくれた。石の目利きはできないから、とても助かったよ……。彼はそのとき、自分の下で仕事をしないかと言って、連絡の取りかたを教えてくれた。もちろん断ったけれど、リザイヤの代金、すべては持って歩けないから、いまも半分は彼が預かっている」
「預けたっ!? ……信用できるの……?」
「さあ。けれど、ああいうひとびとは一度した約束は守ると思う。もしも取り戻せなくても、当分先まで困らないからなにも問題はない」
 本当にどうでもよさそうに、リュイは言った。
「……売ったリザイヤ、どうなったの?」
「それは知らない。おおかた、どこかの富豪の館で敷物か剥製になっているんじゃないか」
 ティセは感動のあまり、全身が小刻みに震えていた。この感動を言葉にしたいのに、昂ぶりが胸に、声が喉につかえて出て来ない。無理やり喉を絞り上げて声を発すると、
「す……す……す……」
 喘ぐような声が出て、それからやっとの思いで、
「すっっっげええええええぇぇぇぇっっ――――!!」
 腹の底から感嘆の声を上げた。唾が飛んで、リュイは厭そうに眉をひそめた。ティセは構わず前のめりになり、焚き火に炙られそうになりながら、思いのたけ叫びまくる。
「すごいよ、おまえ! なにもかもすごいっ! リザイヤに出くわしたことも、襲われたことも、仕留めたこともっ! 闇市へ行ったことも、ライデルの幹部に会ったことも、仕事しないかって言われたことも、高値で売って宝石に換えたこともっ! なにもかもがすごすぎるっ!!」
 禁猟令の出ている野生動物を仕留めて非合法に売ったのだから、確かに大きな声では言えないことではある。が、それはむしろ、大声で自慢していいほどの行為だと、ティセは心から思う。興奮に肩を上下させながら、敬意をたっぷりと込めてリュイの目を見る。
「リュイ、おまえを親分と呼ばせてくれ」
「いやだよ」
「ライデル一家の幹部は、噂のとおり『地獄の使者』みたいな男だったか?」
「とんでもない。柔和な小男だった」
「へえ! …………で、リザイヤ、いくらだったの……?」
 核心に迫ったが、リュイははっきりとは答えなかった。働くのがいやになるから聞かないほうがいい、と独りごとのように返した。

 すっかり火照ってしまった心を引き締める、薄荷みたいな風が吹き、頬をすうっと撫でる。小川のせせらぎも涼やかに、耳からティセをなだめてくれる。東の空に白く輝き出した月の光が、興奮のほとぼりを冷ましてくれる。明滅する蛍を目で追いながら、ティセは気を落ち着かせていった。火照りが冷めると、胸の内にはなんともいえないやるせなさが残っていた。
 ティセは長い溜め息をついて、リュイへ囁いた。
「リュイがうらやましいよ」
 同じく蛍を眺めていたリュイは、ほんのわずか、首をぴくりと動かした。やや間を置いて、横目でティセを見て、
「……何故?」
 その声は普段より低く、ことのほか静かに響いた。ティセはチラチラ燃える焚き火をぼんやりと見つめて、朴直にやるせなさを口にする。
「どこか知らないとこに行ってみたいって心で叫びながら、ナルジャみたいな田舎にずっと閉じこもってたんだ。毎日毎日、同じ日のくり返しでさ、朝起きて、学校行って、つまんない勉強して、飯食って寝るだけだ。刺激が欲しくたって、あの村じゃなにも起きないんだから。そりゃ、おまえも旅に出る前は似たようなものだったかもしれないけどさ……。二年も自由に旅を続けてきたおまえが、俺は心の底からうらやましい」
 リュイは無言で、ティセの言うことに耳を傾けていた。その視線を感じつつ、小さく爆ぜる炎を見つめたまま、さらに続ける。
「俺はリザイヤも見たことないし、闇市も知らないし、強欲じじいの死体を見つけたこともない。毎日があまりにもなにもなさ過ぎて、ナルジャの平和を恨んだことさえあったよ。阿呆かと思うかもしれないけど、ほんとのはなしだ」
 打ち明けて、なんとなく恥ずかしくなったティセは、リュイに目を向けて自分をせせら笑った。リュイは表情もなく、ただ押し黙ってティセを見ていた。



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