解 放 者 た ち

【第四章】

〔1〕





 長旅を続けてきた商人の一団が、今日もよく晴れたティアマの町へ流れ込んでくる。疲労と安堵をその顔に浮かべながら、隊商宿が点在する大通りを歩いて行く。その後ろには、両脇に荷物を下げた十数頭のロバ、空荷の替え馬、売りものの羊たちが続く。乾いた地面から土埃が舞い上がり、賑やかな通りの空気をうっすらと黄色く染める。ティアマの市でそれらを売りさばき、新たな荷を仕入れると、彼らはまた来た道を戻る。どこへ帰るのか、リュイは知らない。
 なにがなし、一団が通り過ぎるのを見届けてから、リュイは宿へ戻った。かまちをまたぐと、途端に目の前が暗くなり、ひんやりとした室内の空気を肌に感じる。夏の近さを知らしめす、日差しの強さを実感する。イリアの隣国、スリダワルに入国してから、暑い日が続いていた。

 薄暗い食堂の隅では、宿の家族が午後のひとときをくつろいでいた。噂話に興じる女将と下働きの娘、その横で、老婆と曾孫が手を打ちながら数え唄を歌っている。リュイはその反対側の隅にある長椅子へ腰を下ろし、手にしていた小荷物を脇へ置く。そして、長靴に薄く被った土埃を払った。
 まもなく、女将が淹れた甘い茶を、下働きの娘がはにかみながら運んできた。礼を言って受け取ると、隅から女将の声がかかる。
「疲れたかい? お連れさんはまだ戻らないようだよ」
「そうですか」
 ティセはおそらく日が暮れるまで戻らない、昨日も一昨日も、その前の日もそうだった。甘い茶を口にしつつ、リュイは頭のなかでそうつぶやいた。日没と同時に宿へ戻るティセがしている、まぶしいまでに輝いた黒い瞳を思い浮かべる。きっといまもあんな目をして、ティアマの町を跳ね回っているのだろう。
 ティアマには六日前に到着した。イリアへの入り口にほど近いこの町は、スリダワルの州都のひとつである大きな町で、交通と物流の要衝だ。町の東西に巨大な公営市場を有し、その市場を結ぶ幅の広い目抜き通りにも、あらゆる店が間断なく立ち並ぶ。隊商宿には私設の市も立つ。ここに滞在しているうちは、ティセは退屈しないだろうと、リュイは考えていた。

 ティアマでは済ませておかなければならない用事がたくさんあった。揃えておくもの、修繕するもの、換金……。先ほど、リュイは古書市を訪ね、本を交換・購入してきたところだ。そこで比較的詳細な地図も入手した。あとは必要な情報を充分に集めておかなければならない。
 折りたたまれた数枚の地図を食卓の上に広げて、漫然と眺める。地図を前にして、リュイはひどく憂鬱になっていた。いつでも、地図はリュイを憂鬱にした。小さく溜め息をつく。今後の旅程を考える――――もっとも厭うその作業は、つねに最後まで残り、リュイを心の底から困惑させた。笛の当てなどないのだし、行き先はどこでもいい。
 どこでもいい――――通行さえ許されれば、気の向くままどこへ行っても構わない。だとしても、行きたいところも見たいものも、リュイにはひとつも思いつかない。自由であることに悩まされていた。行き先を決められず、とりあえずの目的地に長逗留してしまうのがつねだった。リュイは自分の置かれた状況を、完全に持て余していた。長い旅を続けるリュイの視界は、色褪せてからすでに久しい。
 ティセには、どんなことでもいいからこの辺りのことについて尋ねてきてほしい、と告げていた。「まかせとけ!」と、ティセは意気高らかに笑っていた。翌朝から、朝食もそこそこに町へ飛び出していく。正直なところ、ティセの得てくる情報が、それほど役に立つとは思っていない。ふた手に別れようと提案し、べつに情報収集に努めていた。

 少しも興味の沸かない地図の上に、ただ視線を漂わせていると、女将の義母にあたる老婆が腰を屈めながら、自ら揚げ菓子を運んでくれる。年若いふたりの旅人をたいそう気遣ってくれるあたたかな老婆だった。わずかに震えのきている両手で真鍮の皿を差し出した。
「おあがんなさいな」
 丁寧に礼を述べて、揚げ菓子をつまんだ。
「おまえさんがた、どこへ行くのか知らんけど、本当に気をつけてな。ここんとこ治安が悪くなってきてるってはなしだよ。それに、このまえ来たお客さんが言っとったけど、山のほうは近頃、神隠しが多いんだと」
「神隠し?」
「一年の間に子供が三人も神隠しにあったって騒いどったよ」
 女将が隅から口を挟む。
「お義母さん、そんな不安煽ってどうすんの。それに、その話は神隠しじゃないわ、子供が誘拐されたって話よ」
 老婆は女将を振り返り、
「いやだねぇ、よけい危ないじゃないの」
「誘拐なら身代金目当てなんだから、旅人は狙われないわよ」
 そうかねえ、と納得のいかない老婆へ、リュイは「充分気をつけます」と返事をした。
 自分の身を守ることについて、リュイは相応の自信を持っている。けれど、隣りにティセがいた場合はどうだろうか。そもそも、ティセは自分の身を守れるのだろうか、それを思い始めると、リュイは気が重くなった。
 もちろん、ティセを気にかける必要などないのだし、そんな義理も義務も自分にはまったくないと承知している。なにかあれば、ティセを置いていけば済むだけのはなしだ。が、事が起こったとして、実際にそれが自分にできるのかと考えると、途端に自信がなくなった。できるのであれば、二年ほど前のあのときに、あんな罰も恥辱も受けることはなかったのだから――――……リュイは目を伏せた。つい先日も間の抜けたことに、ティセの身代わりになって蛇に噛まれたばかりだ。

 置いていかないでくれと泣き喚くティセを、結局、振り切ってしまえなかった。泣き落としに負けたような結果になった。少なくとも、ティセはそう思っているだろう。けれど、本当はそうではない。脚にすがりついてまで懇願するティセを憐れむ気持ちなど、リュイは欠片も起こらなかった。否、起こったのだとしても、それを意識する余裕があのときはなかった。
 孤児だという話は初めから疑わしく思っていた。嘘があきらかになったところで怒る必要はない。ティセを言葉で諭すのは無理だとしても、もっとほかに穏便な対処のしかたがあったはずだった。
 にも拘わらず、我を忘れて殴りつけた。怒りにまかせて蹴り上げた。何故あれほどまでに激怒したのか、リュイはいまだに分からない。どころか、あのとき身体の奥底から噴き上げたものが怒りであるということすら、リュイには分からなかった。正体の知れない激情に突き上げられて、身体が勝手に動いていた。完全に自失していた。
 そして、すべてが噴き上げたあとに残ったものは、身も心も捨てたくなるほどの疲労感だった。そのうちティセが泣き始めたけれど、リュイはよく覚えていない。あのときのことを、リュイはよく覚えていないのだ。
 あとになって、あれは怒りであったと気づいた。あれほど怒りに沸いたのは…………もっといえば、あれほど感情にまみれたのは、生まれて初めてだった。あんな行動を取った自分に驚愕した。そうこうしているうちに、ティセを振り切る機会を失い、いまにいたる。リュイにとっては、ただそれだけなのだった。
 あのあと、ティセの左頬はたっぷり腫れて、無残な青あざができていた。誰もが振り返ってしまうくらい見苦しい顔だった。口内の傷もひどいようで、二・三日は食事をするのに難儀していた。食べにくそうに口を開けるティセへ、
「ひとを殴ったのは初めてだ」
 リュイは告白した。ティセは信じられないとばかりに目を見開いた。
「ほんとかよ……!? 喧嘩したことないの?」
「ない」
「男のくせに?」
「男のくせに」
 ティセは憎々しげな目つきになり、左頬をそっとさすりながら言った。
「それにしちゃあ、ごっつい拳固だったな…………歯が折れなかったのは奇跡だ。誉めてやるよ」
 あまり誉められている気はしなかったが、
「ありがとう」
 礼を述べると、その目つきはますます憎々しげになった。リュイにはよく分からなかった。

 漫然と地図を眺めていても、いつまでたっても旅程はなにひとつ立たない、思うこともない。町の名ひとつ、目に入ってはこない。頭が考えるのを拒否していた。眺めれば眺めたぶん途方もない気持ちになり、鬱鬱としてくるようだった。リュイは静かに溜め息を漏らし、ほかのことを考え始めた。
 もうひとつの困惑の種――――ティセのことを。
 自分の早足にティセが付いて来られるはずはないと、リュイは高をくくっていた。半日もすればあきらめるだろうと、軽く見ていた。ところが、ティセは付いてきた。ナルジャを出た日の夕刻、草の上に倒れるティセを目の端にとめて、リュイは内心呆然としていた。倒れるほど疲労してまで追ってきたティセに、ひどく驚いていた。少し怖くなった。
 翌日の夕刻、同じように草の上に倒れたティセを見て、震える思いがした。自分の早足に付いて来られるだけの体力が、あの細い身体に備わっているとは考えられなかった。ティセを突き動かしているものが体力でないならば、それは想いの強さと気骨だろう。なにか知らない熱いものを胸に抱いて、ティセは脇目も振らずに自分へ向かってくるのだった。リュイは本格的に怖ろしくなった。
 さらに翌日、ハマの宿で。階下から、ティセが名を呼んだ。どきりとした。名を呼ぶ声は、野犬の咆哮かと思うほど荒々しい声音だった。けれど、そのあとは――――……
 階下から語りかけるティセの声音を、リュイはありありと思い出す。強く、揺るぎなく、ひたむきさに満ち満ちた、素直な声を。それは、ティセの黒い瞳を彷彿させた。まるで同じものだった。精気を湛えたその瞳と同質の声音で、ティセは想いを真率に語った。どんな面持ちで語っているか、見えずともはっきり目に浮かんだ。
 リュイはそれを聞き、肌がざわざわするような空怖ろしさに包まれた。と、同時に、ティセが持っている引力に似たなにかを、どこかに感じた気がした。リュイはそのなにかを、うまく説明できない。
 ティセの想いを聞いたのち、横たわり天井を見つめながら、リュイは考えていた。何故、あんなにもひたむきに自分を主張できるのだろう、確固たる自我と強い想いを抱え、なおかつ、それをまっすぐひとに見せることが、何故できるのだろうか、と。自分に欠けているものを、ティセは確実に持っている。

 ティセはどこか不思議な少年だと、リュイは感じていた。見るものをたじろがせるほど強い瞳と猛々しさを持ちながら、少女のような可憐さとやわらかさをも、そこはかとなく漂わせている。かと思えば物腰はぞんざいで、リュイの目にはひどく粗野に映った。
 いままで言葉を交わした誰よりも、ティセは存在感を持っていた。色褪せたリュイの視界のなかで、ティセという少年は強烈な色彩を放っていた。存在が鮮やかだった。
 そして、陰険野郎などという、かつて言われたことのない、使ったこともない乱暴な言葉で自分を罵倒する。あのとき、リュイは呆気に取られ、つい瞬きをくり返してしまった。
 僕は陰険だろうか……すっかり冷めた甘い茶を口にしつつ、リュイは考える。ティセは陰気だとも言った。それはそうかもしれない、と思う。さらに、「おまえは最低だ」と声を震わせた。
 ――――的を射ていた。的確に自分を言い当てていた。ずきん、と胸が疼いた。短剣を抱いて寝るリュイの胸に、ティセは小さな刃を突き立てたのだ。

 置いていかないでと泣き喚いたあのあとから、ティセは少し変わったようだった。ひとを気にかけるほどの余裕を持たないリュイにも、ティセの変化は見て取れた。尖っていたものがまるみを帯びた、そんな印象を受けていた。ひらたく言えば、よく笑い、よく喋るようになった。孤児だという嘘が露見し、隠しごとがなにもなくなったからかもしれない。
 屈託のないティセの様子を日々眺め、リュイは自身を顧みる。同年代の少年とはこういうものだろうか、自分もこんなふうであるはずだったのだろうか、と。
 ティセほど鮮烈な存在感を放ちながら、自分に打ち向かってきたひとはいない。リュイはティセの引力をどこかに感じながらも、甚だ困惑していた。ティセが隣にいることに困り果てていた。
 誰かとまともに向き合った経験が、リュイにはなかった。対人関係が苦手、苦痛であるという前に、向き合いかたを知らなかった。そのうえ、誰かを受け入れるような心の余裕が自分にあるとは、とても思えない。自分ひとりで精一杯だ、とティセに告げた、あれは紛れもない本心だ。
 けれど、困惑の最大の理由はそれではない。
 ティセは黒曜石に似た瞳に鋭い光を宿し、リュイの瞳をまっすぐに見つめる。じっと、瞳の奥を捉える、見透かすように覗き込む。ティセに見つめられると、リュイは身がすくむ思いがした。瞳の奥にある闇を、ティセはきっと射貫いてしまう。そして、そこに手を伸ばし、永遠に閉じ込めておきたい罪を引き摺り出して、目の前に晒すのではないか。決して目を逸らすなと、眼前に叩きつけるのではないか。
 想像が頭を過ぎるたびに、リュイは全身が震えた。怖ろしさに鳥肌がたち、動悸がした、息が苦しくなった。ティセのまっすぐな瞳は、リュイを不安の井戸へ突き落とす。
 ティセは、恐怖そのものだった。
 ティセといてはいけない。いつか、想像が現実になる。そのとき、自分は耐えられない。どこかでティセを振り切らなければ――――……リュイは堅く目を閉じて、頭のなかでつぶやいた。つぶやいた言葉の隣で、ティセが無邪気に笑っていた。


 予想通り、日没と同時にティセは宿へ戻った。ばたばたと足音を立てて、勢いよく戸口から駆け込んできた。長椅子で読書をしていたリュイは顔を上げる。ティセの顔は昨日や一昨日よりも、さらに上気していた。
「ただいまー! ああ、腹減ったぁ!」
 ティセの履き古した革靴は土埃で真っ黄色だが、気にも留めない。そのまま、リュイの向かいへどっかりと、身を投げるように座る。女将の義母が長椅子から腰を上げて、
「おつかれさん。お夕飯できてるから、ふたりとも手を洗ったら?」
 食堂の隅にある手洗い場で、桶の水を柄杓にすくい、ふたりは互いの手に水をかけてやりながら手を洗った。食卓に向かい合って座ると、下働きの娘が夕食を運んでくれる。種なしの平パンと、香辛料の効いたオクラと豆の炒め煮、酸味のある漬け物、乳酪(ヨーグルト)。
 ティセは右手で平パンを大きくちぎり、炒め煮を包み取りながら、
「すっげーんだよ、もう、すっげーの! ほんとすっげーの!」
 声を高くしてまくしたてる。それから、大きくちぎり過ぎた平パンを無理やり口へ押し込んで、ろくに咀嚼もせずあっという間に飲み込んでしまう。そして、また、
「すっげーんだよ、もう、すっげーの!」
 くり返し、次のひときれをまた口へ押し込む。その動作を何度もくり返していた。話がまったく進まないので、なにがすごいのか、リュイにはまるで分からない。話したくてたまらない、腹も空いていてたまらない、もどかしそうな様子が少し可笑しかった。ティセは本当に行儀が悪い、リュイはつくづく思う。
 呆れていると、ティセはふと手を止めて、リュイの顔を覗き込むようにして言った。
「おまえ、いま、笑ったな?」
「いや」
「いいや、笑ってた」
 ふん、と鼻を鳴らせて、ティセはにやりと笑う。このところ、ティセはよくそう尋ねる。笑っただろう、と確認するかのように尋ね、なにやらにやりと笑うのだ。何故それをいちいち確かめるのか、リュイにはよく分からなかった。すぐに忘れたふうになって、また「すっげーんだよ」をくり返し始める。
「話は食事を終えてから聞こう。まずは落ち着いて、よく噛んで食べたらいい」
 ティセは白けたような目つきをして、
「なんだよ、母さんみたいなこと言っちゃって。あーやだやだ」
 と、せせら笑いをした。


 食事を終え、ティセは晴れ晴れとした顔で、なにがそれほどすごいのか、身を乗り出して話し始める。
「ラグラダって村の近くでさ、最近、洞窟が見つかって、その洞窟のなかに謎の壁画があるんだって。それがおまえ、すっげーんだよ! 原始人が描いたんじゃないかって噂なんだよ!」
 ティセは頭から湯気が上がりそうに興奮している。まるで、自分がその壁画の発見者であるみたいに得意げだ。
 どんなことでも構わないからこの辺りについて尋ねてきてほしい、リュイは確かにそう告げた。が、もっとも重要なのは通行や治安に関することだ。ティセがそういう情報を得てきたことは、六日間いちどもない。ティセが得てくるのは、景勝地や祭りなどの風物についてと名物料理のことばかりだった。今日は原始人だ。無論、リュイは初めから期待も頼りもしていない。そうなるだろうと予想していた。
 ふうん、と返事をすると、感激に水を差されたとばかりに、ティセは口を尖らせた。
「原始人だよ? おまえ、そんな冷静にふうんって言うなよ」
「眉唾物だな」
「ちょっとくらい胡散臭くたっていいじゃないか。旅は浪漫だぞ」
「浪漫……?」
 ティセはまた「あ、笑ったな」と言って、にやりとする。
 リュイは長椅子の上へ置いていた入手したばかりの地図に目を遣った。暫し、無言でそれを見つめていた。おもむろにティセを向き、静かに尋ねる。
「その壁画を見たいの?」
 うっとりと夢みるような口調と表情で、ティセは返す。
「見れたらすごいよなぁ」
「…………それなら、ラグラダを通る旅程を立てようか」
 提案に、ティセはかえって驚いたようで、ぱちぱちと瞬きをして狼狽えた。
「そ、そんな簡単に決めていいのかっ!? おまえだって行きたいとことか予定とか、なにかあるだろう?」
「笛の当てはないと言ったろう。行き先はどこでもいい」
「ほんとにいいのっ!?」
 ティセは目を瞠り、リュイの顔を凝視した。両の拳を堅く握って震わせながら、
「じゃ、じゃあ、昨日話した淡紅色煉瓦で有名な町にも行っていいか?」
「…………分かった」
「ほんとかっ! すっげー! ひゃっほー!!」
 ティセは双手を上げて、長椅子に腰かけたまま飛び上がる勢いで喜んだ。
 感激を全身で表現するティセを眺めながら、リュイは不思議な気持ちになっていた。こんなにあっさりと行き先が決まったことは、いままでいちどもない。もっとも困惑させる、苦痛ですらあった行き先を決めるという作業から、いともたやすく解き放たれたのだ。リュイは救われたような気さえしていた。重要な情報をもたらさないからといって、ティセは役に立たないわけではない。どころか、リュイを苦痛から庇ったのだ。
 はちきれそうな笑みを浮かべて喜ぶティセを、リュイはまぶしげに見つめる。ティセは自らの希望や欲求を明確に持つことができる。行き先を決められず前に進まない自分など、ティセのようなひとは颯爽と追い抜いて行くのだろう。情報の代わりに、溢れんばかりの好奇心を胸に抱いて。
 このまま、ティセとともにはいられない。けれど、もしもティセのようなひとがともにいるのなら…………あてどない彷徨の道先へ、まっすぐに自分を導いてくれるのではないだろうか。リュイは切に思うのだ。

 食卓の上に地図を広げる。天井から下がるランプのやわらかな灯りの下、ふたりは頭を寄せ合い地図を確認する。ティアマの町から南西へ下ったところに、小さな文字で「ラグラダ」と記してあった。
「読めないほどちっちゃい字だな。ものすごく小さな村かなぁ」
「地図に載っているほどだから、それほど小さな村ではないだろう。なにも問題がなければ四日で到着できる」
 ティセは地図の上に指先を滑らせながら、
「淡紅色煉瓦の町は……」
 探し当てるより早く、リュイは長い指を地図に突き立てた。
「マドラプール」
 色合いの異なるふたりの指が、地図の上で交差した。ティセは顔を上げ、目を丸くしてリュイを見る。
「地図見るの早いなぁ」
「慣れているから」
「さすが!」
 ふたりは地図を眺めてしばらく話し合った。旅程がほぼまとまったところで、リュイは地図をたたんだ。そして、やおら立ち上がる。と、ティセははっとしたようにリュイを見上げた。
「おまえ、今日も行くんだろ。ひとりで、ずるいぞ!」
 いかにも不服そうな声音で、ティセは言った。リュイは見向きもせずに、
「すぐに戻る」
「どこ行くか知ってるぞ。酒場だろ。昨日戻ったとき、少し酒臭かったもん」
 心外だ、とリュイは冷ややかな視線を送る。
「……嘘だ。匂うほど呑まないよ。そもそも、酒を呑むために行くわけじゃない」
「分かってるよ、いろいろと話を聞きに行くんだろ。だったら、俺も連れて行け!」
 ティセは恨みがましい目をして立ち上がった。
「…………」
「酒場へ入るには子供っぽい、とか思ってんだろ!?」
 そんなつもりはない、とリュイは返した。そういう問題ではない。横にティセがいるのを気にしながらひとと話をする、考えるだけでひどく煩わしかった。リュイの胸中を察することなく、
「俺も行く。ちょっと待ってて。いま便所に行ってくるから。絶対待ってろよ、リュイ!」
 念を押すように叫び、ティセは食堂の奥の薄暗がりへ消えていった。リュイはそれを見届けてから、足早に戸口を出た。
 日が暮れていても、往来はまだまだ賑やかだ。街灯のほの明かりの下を、ひとびとが忙しなく行き交っている。昼間の日差しの強さが嘘のように涼しい。ひんやりした微風を肌に受け、リュイは気を引き締めた。



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