解 放 者 た ち

【第三章】

〔1〕





 万年雪をいただく神々の山脈に従うイリア王国は、さながら、神の愛でる小さな庭だ。ゆるやかな四季があり、どの季節も厳しさを持たない。春の訪れとともに清らかな雪融け水が流れ、編み目のごとく全土を潤し、地の下を甘露で満たす。大地は草木に彩られ、小さき生命(いのち)が躍動し、豊かな実りを結ばせる。純白に輝く神々の山の頂きを縁にした大空は、どこまでも青い。雨季には女神がさめざめと泣くように、哀しげな雨が降るけれど、乾季の空には太陽が慈愛をもって微笑んでいる。
 首都イリスは歴史のある町だ。古来、さまざまな国の商人が行き交う、交易道の一大拠点として栄えてきた。「イリスで手に入らないものはない」と言われ続ける、町中が市場のような、ひとともので溢れかえった喧噪の町である。イリスの富と豊饒をめぐり、幾度となく争いの舞台になってきたという歴史は、初等部で習うため、誰しもが知っている。
 しかし、現在のイリス、そしてイリア全体は平安そのものだ。現王朝になり、すでに百年が経とうとしているが、その間いちどたりとも争いはない。聡明で堅実な王が続き、かつてない平穏さに満ちた繁栄をみせている。民衆の多くは王家に敬意を払い、王を心から敬愛している。血生臭い歴史などなかったかのように、そして、この恵みと平静が永遠に続くかのような顔をして、ひとびとは穏やかに日々を送る。間延びした平和がイリア全体を覆っていた。


 イリスから伸びる街道を、乗合馬車を乗り継ぎ西へ三日ほど行くと、地方都市ジャールに辿り着く。そこから北へ向かう田舎道を、さらに二時間ほど歩いたナルジャの村で、ティセ・ビハールは生まれ育った。
 ティセは父母の婚姻後、三年目にして授かった待望の子だ。生まれたとき祖父はすでになく、祖母も記憶に残らないほど幼いころに亡くなっている。父母は第二子を授からず、複数の子供をもつのが当たりまえのような田舎の村で、ティセはめずらしく独り子だった。父のふたりの姉妹はイリスに家庭を持ち、母は遠い町から嫁いできた余所者である。ジャールにある町工場へ通勤する父と、洋裁を身につけ仕立ての内職をする母、ティセの家族はそれきりだ。けれど、愛情を一身に受け、なに不自由なく育てられた。


 記憶のあるかぎり昔から、ティセは男の子のように振る舞っていた。まだ自宅の周辺だけが世界だったころ、周りの子供たちが全員男児であり、彼らと毎日遊んでいたからではないかと、ティセは漠然と考えている。しかし、それだけではないことに、自身まだ気づいてはいない。父親が本心では男児を強く望んでいたことを、いつのまにか、無意識にも感じ取ってしまったからだ。
 ティセの父は大人になっても、少年っぽさの抜け切らないひとだった。どこか飄然としていて、実際若いころには放浪癖があった。その子供時代を知る校長は、つねにぼんやりとしていて、授業や遠足で野外へ出ると必ず行方不明になるティセの父について、ティセと同じくらいの問題児だったと語っている。
 父はティセに対し、まるで少年同士の仲間であるみたいに接していた。威厳こそなかったが、ティセはそんな父親が大好きだった。


 もうひとつ、母への反発心が関係していることにも、ティセはまだ気づかない。ティセの母は、父が旅先で知り合った女である。父と同じように母もまた、心のどこかにいまだ少女を住まわせているようなひとだ。
 そして、ひどく心配性であった。父とは旅を介した仲であるのに、母は旅心を解さない。旅は母にとって、愛する者を危険に晒す無益なものでしかなかった。父がティセに旅の思い出を語り始めると、母は必ず「やめて」と言った。「ティセがその気になったらどうするの!?」と泣きそうな顔で遮った。けれど、遅かった。もう、とうにその気になっていた。ティセにとって母の心配は、父のしてくれる楽しい話を邪魔する煩わしいものでしかなかったのだ。
 母の実家は比較的裕福で、娘時代に洋裁を習う余裕があった。結婚前はわりあい有名な洋物屋で仕立てをしていたと、ティセは聞いている。ナルジャでの内職では、伝統衣装を手がけるほうが多い。が、どちらにしても、心に少女を住まわせる母の作る衣装は女たちを魅了し、ナルジャだけでなく、近隣の町々からも注文が入るほどだった。男たちの洋装が急速に浸透しつつあることも手伝い、注文はひっきりなし。家族との時間を第一にしていた母は、父の生前は注文を断ることも多かった。
 可憐な花みたいに育てた娘に、愛らしい衣装を縫ってあげたい、母はそう夢見ていたに違いないとティセは思う。しかし、いくら可愛らしい衣装を用意されても、頑として着なかった。ティセが身につけるのは、洋装の上衣と落ち着いた色合いの脚衣――――つまり男物だけだ。
 そんな身なりをして、男の子らしく振る舞えば振る舞うほど、母は嘆いてみせる。それが、ティセには痛快ですらあった。
「どうしてティセは女の子に育たなかったのかしら」
 そう嘆き、項垂れる母を見るたびに、父との絆が不思議と深まった気が、心のどこかでしていた。幼少時から続く母への反発は、裏を返せば、構ってほしいという子供じみた愛情表現でもあったろう。ティセはまた、母も深く愛している。


 ナルジャには学校はひとつしかない。義務教育の初等部と、任意教育の中等部が、同じ敷地内に校庭を挟んで建っている。校長は兼任の校長だ。任意教育とはいえ、ナルジャの子供たちのほとんどは、中等部までは修めるのが通常だ。高等部はジャールまで通わなければならないため、進学率はがくりと落ちる。とくに、高等部まで通う女子はほとんどいない。
 初等部へ入ると、ティセの世界はナルジャ全体に広がった。そして、自分が同年代のどんな位置にいられる存在なのか、一日で把握した。早いはなしが、ティセはガキ大将として君臨できたのだ。
 学年の内で誕生日を早く迎えるティセは、ほかの子供たちより体格も体力も頭の回転の速さも、当時は抜きんでていた。持って生まれた運動神経の良さ、運の強さ、そのうえ父親譲りの度胸の良さも加わって、入学式の翌日には学級を掌握した。その翌日には隣の学級を抑え、一年生全二組を征圧した。半年後には仲間を引き連れて、難攻不落と思われた二年生の悪童団をも攻め落とした。
 「初等部始まって以来の暴れん坊」「無敵のじゃじゃ馬」「オトコオンナ」……さまざまな渾名を付けられたけれど、誰もはむかえないほどティセは強かった。強さと明るさと清々しさを備えたティセは、皆に慕われつつ、ガキ大将として一目置かれていた。


 初等部へ入りラフィヤカと知り合った。ひときわ可愛らしい顔立ちをして、ちょこちょこと小股で歩くラフィヤカを初めて見たとき、母はこんな娘になってほしいのだろうとティセは思った。女の子とママゴトをするのが恥ずかしかったティセは、とくに親しくしようとは思わなかったが、ラフィヤカは違ったらしい。暇さえあればティセを追いかけ回した。ティセはあまり相手をせず、いつでも適当にあしらった。「ティセ、待ってよぅ……」切なく呼びかけながら、小股で追いかけてくるラフィヤカの声を、ティセはいまでもよく覚えている。
 二年生に進級すると、カイヤが転入してきた。父親の仕事の関係で、ある地方都市に一家で住んでいたのが、ジャールにある支社へ転勤になったことでナルジャへ戻ってきたのだ。
 毎日毎日、カイヤはラフィヤカを追い回し執拗にいじめていた。いじめられると、ラフィヤカは必ずティセに泣きついた。そのあとは決まって仇討ちに行った。けれど、本当はラフィヤカのためではなかった。正義感からでもない。都会の匂いを漂わせた、おまけに成績の良いカイヤがおもしろくなくて、仇討ちを言い訳に少し懲らしめてやろうと思ったに過ぎない。
 それも、初めのうちだけだった。思いのほか、カイヤが骨のある少年だったので、喧嘩をするのがとても楽しかったのだ。来る日も来る日も、ふたりは叩き合い、蹴り合い、取っ組み合った。そうして、喧嘩をしながら仲良しになった。名誉のためにつけ加えておくならば、百戦百勝、ティセはいちども負けていない。
 ふたりが仲良くなってから、カイヤはもうラフィヤカをいじめなくなった。すでに三年生になっていた。何故あんなにいじめていたのか、理由は聞かずとも推定できた。おそらく、ラフィヤカが好きでたまらなかったのだ。ティセと仲良くなってしまえば、その後ろに控えているラフィヤカを、いつでも見ていられるのだから、もういじめる必要はない。そのためにラフィヤカは、大の男嫌いになってしまった。


 一年生のころからの仲間である、プナク、ラッカズ、スストに加え、カイヤは中将としてティセの悪童団の一員となった。それからは、いま思い出しても愉快な、楽しい日々を送った。村中の至るところにいたずらを仕掛けたり、秘密基地を作って良からぬことを企てたり、ジャールまで行って喧嘩を売ったり買ったり…………冒険と称して遠出をすることもあった。
 真夜中に家を抜けだして、森へ探検に出たこともあった。あのときのことは、いまでも思い返すたびにティセの口角を上げる。真っ暗な森のなかから妙な声が聞こえるので、「妖怪だ!」と全員震え上がった。臆病なところがあるプナクはちびっていた。
「俺が行く!」
 ティセは勇気を奮い起こし、森の奥へひとり踏み込んだ。よくよく確かめてみれば、森のなかで村の若い男女が逢瀬を楽しんでいただけだ。お化けのふりをして、逆に脅かしてみたら、ふたりは裸みたいな姿のまま脱兎のごとく逃げ出した。男が先に逃げ、女が怨みごとを叫んでいた。皆、転げ回って大笑いした。ふたりは忘れものをしていったので、翌日親切に届けてやった。男は苦虫を噛みつぶしたような顔で、にやける五人を睨みながら、全員に口止め料を奮発した。


 前代未聞の悪童ども、校長も教師たちも、村の大人たちも、皆呆れ返ってそう呼んだ。けれど、翌日になれば笑いばなしにしかならないような、些細ないたずらや小競り合いの喧嘩ばかりだ。長く根を残したり、誰かの心を打ちのめすような、そんな悪辣なことは決してしなかった。故にこのときはまだ、村のひとびとはティセを、ただやんちゃが過ぎるだけの子供だと、好意的な目で見ていた。
 太陽みたいな父親と、うるさくも優しい母親。大らかな心で見守ってくれる校長と、愛すべき仲間たち。周りのすべてに温かく受け入れられて、ティセは本当に楽しくのびのびと、曲がることなく初等部時代を過ごしていた。
 特別な悩みも苦痛もなかった晴れやかな時代は、十一歳の秋に終わりを告げた。否、いま考えてみれば、突然訪れた不幸をきっかけに、自分自身が終わらせてしまったのだと、ティセはもう気づいている。


 ある蒼天の秋の日に、仕事中の事故でティセの父親は逝ってしまった。刈り入れを待つばかりの稲穂が、金色の波を打つ美しい季節だった。いつもどおり、学校近くの空き地で仲間たちと遊んでいたティセは、駆けつけてきた近所の男性から訃報を知らされ、自宅へ戻るまでの記憶を失うほど動転した。父は即死だった。なんの準備もさせず、最期の言葉も聞けず、別れの挨拶もさせずに、動かぬひとになっていた。遺体と対面した瞬間、ティセの思考は停止した。


 なにが起こっているのか分からないまま葬儀が執り行われ、村はずれの墓地へ埋葬された。二度とその姿を見られないということすらよく把握できずに、ティセはただぼんやりと立つだけだった。葬儀の日のことをいま思い出そうとしても、金色の稲穂が豊かに波打つさまが目に浮かぶだけ、それ以外はなにひとつ思い出せない。
 しばらくして、イリスから駆けつけた父のふたりの姉妹が帰り、自宅に母とふたりきりになったのを初めて意識した。そのときになって、ようやくティセは父の死を深く認めた。心のなかというよりは、もはや身体のなかすべてが空洞になり、自分の手のひらさえ見えないほどの闇で、虚ろが満たされた。
 その真っ暗な空洞の底から、悲しみと衝撃の涙が噴煙のように噴き上げた。ティセは泣く場所を求め、探し続けた。誰もいないところを見つけ出し、そこに身を潜め小さく縮こまり、激しく泣いた。声を押し殺しながらも、無心で泣いた。空が落ちてきて、天地がひっくり返り、ナルジャは破滅した――――そんな気がしていた。何故なら父は太陽だったから。ティセの空に、光はなくなった。



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〔第二章8〕〔1〕〔2〕

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