解 放 者 た ち

【第二章】

〔1〕





 太陽が真南に差しかかった。風は昨日よりわずかに暖かい。真っ青な空にはひつじ雲が浮かび、ときおり太陽に光の環を被せる。牛車がすれ違えるほどの幅をもつ田舎道の中途、ティセは日差しをまともに浴びながら、荷物にもたれ座り込んでいた。光の環と同じくらい丸く口を開け、何度目かも分からない大あくびを空に向かって放つ。
 ナルジャと変わらない風景が続いていた。田畑が延々と広がっている。先ほどまで代掻きに酷使され悲鳴を上げていた牛やロバが、主人が昼食を取りに戻ったのをいいことに、おのおの昼寝をし始めた。草の上に巨体を投げ出して、しきりに口をもごつかせ、いましがたはんだ草を二度も三度も楽しみながら微睡んでいる。尻尾だけが別の生きものであるみたいに忙しなくはためいて、ハエを払う。ときどき、ひどく緩慢に口を開いては、太平の世を体現するような見事なあくびをしてみせる。ティセはすぐそこにいる牛のうたた寝をうらやましげに眺めつつ、ひたすら眠気を耐えていた。
 昼前に過ぎた集落までなら、以前訪れたことがある。冒険と称して、四人の仲間たちとよく遠出をしていたからだ。眠気にぼんやりとする頭で、その冒険の数々を思い出していた。厚い友情に支援されながら、先頭で胸を張った子供らしい冒険の日々を。この辺りはもう知らない。そして、四人の仲間はいま、いない。代わりに、ティセの視界にはリュイがいる。
 五十歩ほど先の木陰で、リュイは牛やロバと同じく昼寝をしている。農作業や休憩をするために設けられた、木の根もとを囲むように石を積み上げた広い腰掛けの上で、荷物を枕に寝ている。
「……呑気に寝腐りやがって、かわいくない……」
 ティセは憎しみを込めて独りごちた。
 今朝方ナルジャを出てから、リュイはものすごい速さで歩いていた。景色を楽しむ気などさらさらないような早足だ。もっとも、二年も旅をしていれば、そういう気持ちはとうに失せているのかもしれない。ティセは追いかけるのに精一杯で、道中ほとんどなにも考えられなかった。疲れて根を上げるように、わざと足早に歩いているのは間違いない。昨日、明日はモーダに着く、と言っていたけれど、モーダなど昼前に通り過ぎてしまった。あの長い脚を半分に折ってやりたい、ティセは頭のなかで憎まれ口を叩きつつ、息を切らせて後ろ姿を追った。
 たいへん疲れていた。そのうえ眠くてたまらない。昨夜は一睡もしていないのだ。見渡せば、視界にいるすべての生きものが昼寝をしている。牛、ロバ、山羊、リュイ……。俺にも昼寝をさせろ、ティセは痛切に願う。しかし、寝てしまうわけにはいかなかった。目を閉じて意識が落ちた瞬間、リュイはぱちりと目を開けて、ほくそ笑みながら立ち去ってしまうかもしれない。はっと目覚めたとき、あの木の下にリュイの姿がなかったら……想像すると、ぞっとした。そんな怖ろしい想像が、ティセのまぶたを押し上げていた。
 しばらくして、リュイは半身を起こした。
「出発か!?」
 ティセは刮目し、心を構える。が、リュイは横たえた荷物の口に手を差し入れると、なかから本を取り出した。そして、背筋を伸ばして胡座を組み、読書を始めてしまった。
「……ちっきしょう!」
 思わず、拳で両膝を叩いた。昼寝のできない昼休憩なら、いっそないほうがいい。とんでもない速さで歩くのだとしても、歩いているほうがよっぽどましだ。睡魔との戦いはまだ続く。


 本を読みふけるリュイは、昨日出会ったときと同じように、無駄な身動きひとつしない。たとえば、膝を上下に揺らしてみたり、衣服の一部を意味もなくいじってみたり、指先で調子を取ってみたり、頭を掻いてみたり、そういった人間らしい情緒ある動作を一切しない。時が止まったか、さもなくば彫刻であるかのように静止する。本をめくる際のわずかな指の動きだけが、命あるものの証しのようだ。生きている感じのしないひと、リュイの様子を眺めながらティセは思った。近寄りがたく感じるほど整った容姿よりも、むしろその印象が親しみを覚えさせないのかもしれない。
「……こんなやつ初めてだ……」
 座り込んでいると寝てしまいそうなので、ティセは立ち上がった。疲れてはいるが、眠気を覚ますために身体を動かすことにした。大きく伸び上がってから、弾みをつけて腰を回す。それから屈伸運動、開脚運動、ついでに腕立て伏せ。腿周りだけがゆったりと作られた脚衣(シャルワール)が地面に触れて、ぱふぱふと軽い音を立てる。
 ティセの姿は間違いなくリュイの視野に入っている。けれど、急に立ち上がり運動を始めたティセに、なんの反応も示さなかった。ちらりとも目をくれない。視野には入っていても見えてはいない、とでもいうように。出発してから、リュイはただのいちどもティセを振り返りはしなかった。完全無視だ。腕立て伏せの姿勢のまま、ティセはリュイをぎろりと睨みつける。
「かわいくないっ、かわいくないっ……!」
 連呼しながら、やけっぱちに腕立て伏せを続けた。
 日差しがやわらぎかけるころになって、リュイはふいに読書をやめた。するとまた無駄のない動作で本をしまい、頭陀袋の口を手早く縛る。石の腰掛けからすっと降りると荷物を背負い、なめらかな風のように出発した。運動の甲斐なく、ふたたび眠気に襲われ朦朧としていたティセは慌てた。
「出発の前置き、ないのかよっ!」
 よろめきながら荷物を担ぎ、リュイのあとを追う。
 そのあとも、午前中と同様にリュイは歩き続けた。とんでもない速さで、兵隊の行進のようにまっすぐ突き進んでいく。ティセはまなこを凝らし、狙いさだめて付いていく。さぞかし鬱陶しいだろう、と思うけれど、リュイは決して振り向かない。早足と完全無視で、あきらめるのを待つ作戦なのはもう分かった。軽快に走る馬車の車輪のごとく、両脚を淀みなく回転させて、ティセは頭のなかで気炎を吐く。
 お望みどおりいくもんか、俺は根性野郎だ、根性ならおまえには負けない――!!


 陽がだいぶ傾いたころ、ある村へ到着した。リュイの足が急に遅くなったことから、一日の道のりを終えたのを悟った。助かった……心からそう思ったティセは「はあぁぁぁ……っ」と、声に出して溜め息をついていた。
 ナルジャを気持ち小さくしたような村で、とくに変わるところはない。目抜き通りには申し訳程度に店が並んでいる。活気のない店先を、黄の色を帯び始めた陽光が照らしていた。通りにはひとがぱらぱらと出ている。老若男女、すべてのひとがリュイに注目していた。リュイは前だけを見ている。ナルジャを出てから、つねにそうだった。通り過ぎたあとも、ひとびとはその後ろ姿をいつまでも見送っている。そのあとに通るティセも注目はされた。けれど、自分に注がれる視線とリュイへのそれとは、まるで違う種類のものであることに、ティセはすぐに思い至った。考えてみたこともなかったが、ものめずらしげな目で眺められると、どんな気持ちになるものなのか。ティセにはまだ想像がつかない。いつかイリアを出たならば、それが分かるだろうか。旅心はますます厚くなる。
 リュイはある商店に立ち寄ると、少しだけ買いものをしたようだった。そして、店先の椅子へ腰かけた老夫となにか話をした。それから、通りにある共同井戸で水筒に水を分けて貰っていた。桶を手にした女たちが、遠巻きに、けれど穴が空くほどリュイを見ていた。ティセも慌ててリュイを真似た。とにかく、片時も目を離せない。あとになって、ひとりで水を貰いに行くのは不安だった。
 昨日のように、リュイは休耕地で荷物を降ろした。老夫に休耕地の場所を尋ねたのだろう。隅にあるバンヤン樹の下に居場所を定めると、夜の準備に取りかかる。ティセは別のバンヤン樹の下に荷物を放り投げ、ぼろぼろに疲れ切った身体を打ち捨てる気分で草の上へ倒れ込んだ。
「……死んだー」
 林の向こうが夕暮れの色に染まるまで、ティセは草の上から起き上がる気になれなかった。全身が捨てどきを逸したぞうきんのようにクタクタになっていた。身体のあらゆる部分に疲労が溜まり、きしきしと音を立てている。使いすぎて火照りをもった筋肉は弛緩し、力の入れかたを忘れてしまったように身体のなかにだらりと横たわっていた。しんどい、というのはこういうことを言うのだ、とティセは知る。
 それにしても、あんな速さで歩きとおして、リュイは疲れていないのだろうか。ティセは甚だ疑問に思う。昼休憩の際も、この村に到着したあとも、疲れた様子は微塵も見せない。ここへ着いたあとも、少しも休むことなく焚き火をし始めた。
 もちろん、ティセがここまで疲れているのは睡眠不足のせいもある。が、もし充分に寝ていたとしても、ほとんど突進といっていいほどの速さで、荷物を背に歩きとおしたのだ、やはりこうして草の上へ倒れただろう。まさか普段からこの速さで歩いているのだろうかと、ティセは考えにくいことすら考えた。いったいどうなっているのか、わけが分からなかった。
「……こんなやつ、ほんと初めてだよ……」
 草の上で大の字になり、色褪せた空を漫然と眺めながらつぶやいた。二羽の鳶が高みで悠々と輪を描いている。囃子の笛の音に似た鳴き声が、耳に届く。
 ティセは昨日のことを思い出した。昨日はナルジャの休耕地にいて、やはり鳶が鳴いていた。昨日のいまごろリュイと出会ったのだ、ティセは感慨を深くする。沙羅樹の下からまっすぐに自分を捉えていたリュイの姿を、胸に刻みこむように想起した。いま、ふたりは違う空の下にいる。


 休耕地が薄闇に包まれ始めた。バンヤン樹の下で、小さな焚き火がチラチラと燃えている。リュイはアルミの小鍋で簡単な煮物でも作ったようだ。相変わらず背筋を伸ばして食している。よく見えないけれど、きっと揚げ菓子のときと同じように、ものを食べているとは思えない顔つきで口にしているに違いない。ティセは持参した種なしの平パンに齧りつきながら、揚げ菓子を見つめる冷たい眼差しをありありと思い浮かべた。
 冷たい。そう、あまりに冷淡だ。今日、リュイは本当にただのいちども、ティセを振り返りはしなかった。どころか、視野に入っているのは間違いない状況であっても、まるで見えていないかのごとく振る舞い続けた。そこにはわずかな不自然さすらない、完全に見えていないような無視だった。
 ティセの心はまだ折れない。心のなかに引かれた揺るぎない直線は強靱だ。けれど、明日も完全に無視されたら……そう考えると少し不安になった。今日と同じ速さで歩くのを想像すると、憂鬱になった。込み上げてくる憂慮が喉を塞ぎ、ティセは平パンの続きが食べられない。そんな自分を情けなく思う。
「……いいやっ! 俺は負けないっ!」
 首を激しく振り、弱気を払う。平パンを口に押し込めて、水筒の水で無理やり流し込んだ。


 とっぷり暮れて、辺りは闇に包まれた。夜空にはうっすらとした雲が所々かかり、星々の瞬きを遮っていた。月はまだ顔を出さない。リュイはもう眠っているだろう。ティセは蓑虫のように毛布へくるまって、疲れすぎて眠れない身体を持てあましながら考えていた。
 今日、ナルジャは未曾有の騒ぎだったろう。ティセの家出話は瞬く間に村を駆けめぐり、ひとびとを驚愕させたに決まっている。捜索がなされ、たくさんのひとが骨を折り、怒り、心配し、迷惑を被っただろう。誰かが追ってくるのを、ティセは懸念していたけれど、ついに来なかった。今日が休日であったのは本当に幸運だった。でなければ、こんなに簡単に出ては来られなかったはずだ。ここしばらくの間、休日には昼近くまでだらしなく寝ていることが多かった。母は呆れて、もう起こしに来なくなっていた。おそらく、母はティセがいないことに露ほども気づかずミシンを踏み続け、昼を過ぎても起きてこないのを不審に思ってから、ようやく置き手紙に気づいたのだろう。そして――――……
 リュイがただごとでない速さで歩きとおしたことも、追っ手の件からすればかえって良かったといえる。それに、リュイが隣町から村へ入ったことを、村のひとびとがもしも知らないならば、ふたりは首都イリスへ向かっていると誰もが思い込んだのではないだろうか。稀に村を過ぎる旅人は皆、イリスへ向かうのがつねだ。ナルジャよりさらに奥、さらに田舎を目指す旅人はほぼいない。が、リュイはイリスから来たのだ。ティセの捜索は、おもに隣町からイリスへ向かう街道方面になされたことだろう。
 ……母さん。
 頭のなかでつぶやいた。置き手紙を読んだ母は、どれほど衝撃を受け、どれほど震駭し、狂乱したことだろう。夜が更けたいまもまだ、泣きながら自分を探しているのかもしれない。母を思うと、ティセはさすがに胸が押し潰されそうに痛んだ。申し訳ない気持ちがほとばしり、大声で呻きたくなった。ごめんなさい、と千回も万回もくり返したい。
 そして、校長。校長には予告めいたことを口走ってしまった。ティセの決意を見抜けなかったことを、止められなかったことを悔いて、校長は自責の念にかられているかもしれない。その慈愛と、自分の心根に向けてくれる信用を、こんなにも容易く裏切ってしまった事実が心の底から苦しかった。もう会わせる顔がないとすら思う。
 ラフィヤカ、カイヤ、プナク、ラッカズ、ススト……それに、ナギ。皆、さぞ驚き、心配しているだろう。村のひとびとはどうだろうか。呆気にとられながらも、あの不良がとうとうやらかした、とでも噂しているかもしれない。もともと芳しくない自分の評価は、ついに今日、地に落ちた、とティセは考える。帰っても、自分の居場所がもはやあの村にあるだろうか、と。
 残してきたことについて、いろいろな想いが渦巻いた。けれどティセは、後悔だけはほんのわずかでさえしていない。未知なるものへ向かって心は澄んでいる。リュイが折れてくれるのを、全身全霊で祈っている。そんな自分の潔さが快くもあり、怖ろしくもあった。自分の残酷さに、驚嘆していた。毛布のなかでモソモソと、衣嚢(かくし)に忍ばせた方位磁石をぎゅっと握り締めた。
 その夜は、朝になってリュイの姿がなかったら……と気に病みながら、うつらうつら眠りについた。


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